『堀田牛乳店』と『堀田牧場』
夕張文化『NO.43』(1998年夕張市発行)に、栄町にあった『堀田牛乳店』の堀田正昭さんが,
「大夕張・・・我がふるさと」
と題して原稿を寄せているので、そこから昭和のはじめ頃の堀田牧場について紹介します。
三菱大夕張炭砿が出来てまだまもない昭和4年、堀田さんのご両親が千年町の川沿いに、牧場を開きました。三菱礦業所の指定商の一人としての入植でした。
当時、シューパロ川は「堀田の川」と呼ばれ、鹿島小(当時は大夕張尋常高等小学校)の遠足コースにもなっていました。当時の写真(下に掲載)も載っていますが、今のシューパロ川の河原と違い、川の周囲は林といった感じで、川岸ぎりぎりまで木や草が茂っています。
ご両親が月1回、牧場経営について鹿の谷の祖父母の元へ相談をしに、深夜、陸路もなく大夕張鉄道の線路を歩いて出かけた時には、兄弟4人で留守番をしていたそうです。
堀田牧場の辺りは、熊や鹿がよく出没したようで、牛を守るため、出刃包丁と木刀を布団の中にしまい、じっと両親の帰りを待っていたとのこと。
さぞかし、子供だけの深夜の留守番は心細かったに違いなく、今でも「熊や鹿の声は耳に残っている」ということです。
また、戦前には、炭砿から逃げ出したタコ部屋労働者が、家の明かりを頼りにやってきたことがあり、その時、ご両親がおにぎりや厚手のズボンを渡していたのを、堀田さんはよく覚えているそうです。
堀田さんが、牧場を開いたのは千年町番外地、当時はまさに人家のはずれでした。
『堀田牛乳店』が、栄町で営業を始めたのは、戦後シベリア抑留から帰還してのことだそうです。
炭砿が栄えた昭和40年代には、1日5000本以上も売れ、寝るひまも無かったくらいいそがしかったとのこと。
特に、炭砿ではテトラパックが人気で、仕事を終えた炭砿マンが進発所でひと風呂あびて、牛乳を飲み干している姿がよく見られたということでした。
今、堀田牧場があったと思われる鹿島橋から暁橋跡の辺りは広い河原です。
ダムによる増水の為か、石と砂で覆われています。
また、私が知る栄町の『堀田牛乳店』の跡は、無人の廃墟となり未だ取り壊しを免れ雪の中で眠っています。
(2000年3月2日 記)
昭和5年 牧場開設当時、堀田正男氏と家族
昭和10年 千年町 堀田牧場 シューパロ川沿い 対岸はのちの常盤町(当時街はない)
堀田さんが牛舎を経営していた、昭和17、8年頃、戦時下の中、町でも山羊飼育が奨励され、山羊綿羊組合会員の小林さんの家へ、堀田さんが、山羊の出産に駆けつけた話が次の記事に出ている。
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堀田さんは、大夕張駅に向かって右手に札幌通運があって、その隣に牛乳を量り売りしているところが、確か堀田牛乳だったかな?という記憶がありますが、違いましたでしょうか。
堀田さんは、坂本、井出、大井さんらとともに、礦業所の第一次指定商として昭和4年に千年町に入植しました。
昭和30年代の写真に、この場所に建物は写っていますが、自分が中学校に通った時はすでになく、おそらく大夕張ダムの関係かと。
経緯は、わかりませんが、のちに、購買会横で牛乳販売業を営んでいました。
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https://ooyubari.com/2020/07/17/ekimaesyotengais45/
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