明石町の店の変遷 | 高橋正朝 #35
例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。
私は、昭和39年の春に、一家転住でもって札幌に引っ越した。
だから、飯田さんが編集した明石町住宅地図は、それから4年後のものである。
昭和30年代 明石町
右下の建物は、明石町の購買会。
対岸から見た明石町
昭和40年頃
昭和43年明石町住宅地図
明石町で、1番大きかった店は、購買会だった。
3枚の写真/イラストで見ることができる。 当時の私には、詳しい経緯は知る由もないが、この明石町の購買会は、私が中学2年生か3年生のとき、個人経営になったようだった。
その店で、普段見かける店員は、私より2歳ぐらい年上の娘さんと父親で、2人で店内を切り盛りしていた。
次いで大きかったのが、服部商店だった。
位置としては、イラストの、津留商店がそれにあたる。
【 対岸から見た明石町 】では、家の形が、他の住宅とは違うのが見て取れる。
【 昭和30年代 明石町 】では、写っている購買会の向こう側になるので、この写真では見れない。 服部さん一家が、札幌に転住したのは、我が家より少し早かった。
その後に、津留商店になったわけだが、時期などはよく覚えていない。
イラストには載っていないが、生協があった。
私が、小学校3年生のときにできたように思う。
母親が、生協でノリの佃煮とジャムを買ったのを見ている。
大夕張や千年町に住んでいた人たちには、ジャムなんて珍しいものではなかったろうが、私は、明石町の生協で、ジャムそのものが売られているのを初めて見た。
その店で初めて見たものとしては、首振り扇風機である。店内には2台あった。
天井であったか、それとも天井近くの柱に取り付けてあったのかまでは覚えていない。扇風機の首振り動作を感心して眺めていた。
このタイプの扇風機は、今日の日本で見かけることは、殆どなくなった。 数十年前、江ノ島の海の家で見たことがあったが ••••••。
しかし、東南アジアでは、クーラーを設けない開放型の店では、羽が大きくてゆっくりまわる天井設置型のファンとともに、現在でも普通に用いられている。 南欧の開放型のレストランでも普通に見る。
話を明石町の生協に戻す。
生協があった場所は、浴場のすぐ傍だった。 イラストに見える、荒井 さん 宅が、その位置だった。
明石町の生協が商売していたのは、5年ぐらいだったのではなかろうか ••••••。
私が、ヒー坊こと、高島均 さんと、東小学校4〜6年生のときに同級生になったことがある。
菊組であった。 4年生のときに、彼の家にテレビを見せてもらいに行った当時、一家は、浴場より少し上方、7丁目か8丁目辺りに住んでいた。
中学2年生に K 組となり、やはり、同級生となった。 やがて、お父さんが炭鉱を退職し、その後、イラストの場所にラーメン店を開いた。 この店は流行った。
明石町には、もう一つ商店があった。 阿部豆腐店である。 東高に行く坂の途中、右側にあった。 イラストには載っていないので、昭和43年は、商売は既に止めたあとだったのだろうか ••••••。
(2021年4月18日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。