とらやのパンやの思い出 |Kawauchi Masami
荒川商店の棟の中に『とらやのパン』がありました。
コンクリートの台を上がって、お店に入って、給食用のパンを買って、学校へ行きました。
『日糧パン』は荒川商店さんの看板で、「とらや」は自分とこの「とらやのパン」しか置いていませんでした。
しかし、昭和39年ごろ、鹿島小学校では完全給食になり、その後どうなったのか、「とらやのパン屋」さんに行った記憶は有りません。
「とらやのパン屋」さん、小学校の給食用の、コッペパンや、角食2枚入りのビニールに入ったパンを、白いトラックで運んでいました。
「とらやのパン屋」も、すさまじい人生だったのでしょうね。
昭和35年頃の創業かな。
私は、小学校2年生の頃から行っていますが、店は新しいと思いました。
朝、通学の時、「とらやのパン」、人が入れないぐらい、混んでいました。
それもそうです、大夕張、最盛期の頃でした。やっと、買ったパンを持って、小学校へ行きました。
弁当を持ってくる子もいましたが、当時、各家庭、子供が多く、5人兄弟とか珍しく無かったです。
弁当作るのも大変だったと思いますし、帰りには、空箱持って帰らないとダメでした。
4年後の昭和39年、小学校の完全給食が始まり、「とやらさん」は、小学校にパンを卸していましたが、 昭和44年ごろ、宝町にあったパン工場を辞めて、工場をダンスホールに変えて「キャンドル」として営業していました。
結構な若者が集まり、繁盛しました。
が、またまた、昭和48年大夕張の閉山で、完全に潰れてしまいました。
千年町の後、鹿ノ谷で、確か弁当の折だったか作っていたとか・・・。
あの「キャンドル」の人達 何処へ行ったのでしょうね?
(2021年3月1日 記)
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。