道路横断の土管の出口に造った池 | 高橋正朝 #38

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対岸から見た明石町  

昭和40年頃   

明石沢の周辺 下の写真を拡大した部分
彩色したあたりが明石町番外地と明石沢のあたり。話の舞台になるところ。

昭和43年明石町住宅地図

 我が家から見えた、鉄橋の架かった『 明石沢 』と思われる小川は、番外地の開拓寄りの沢を流れ、シューパロ湖ができる前までは、滝となってシューパロ川につながっていた。

    

【 対岸から見た明石町 】の写真では、この小川は写っていないが、そこに架かっていた鉄橋は写っている。 

 画面をピンチアウトするとわかります。 明石町駅から、少し左に寄ったところです。

  

 この小川は、雨が降ると水量が急に大になり、そのせいか、道路に埋設された土管の直径は、1.5メートルぐらいあった。 

 鹿島東小学校の生徒のころ、何の目的もナシに、この土管の中を往き来した。

 この小川は、シューパロ川につながる手前で滝になっていた。

 この滝の両側の崖を、下りたり上ったりしたことは1度もない。

 素手で下りたりするのには、掴まるべき適当な木やツタが崖になかったから、危険であった。 

 ただし、柿崎徹 さん にバンコクから電話して、略図に彼が住んでいた家が描かれていないことを言ったら、彼の家の側の崖からは、シューパロ川岸に下りて行けたそうだ。

 小学生当時、家のすぐ裏のその崖から、よく、川に釣りにでかけた、と言っていた。

 ちなみに、柿崎さん 一家が、明石町番外地に引っ越してきたのは、鹿島東小学校3年生ぐらいのときだ。

 ぐらい、と表現したのは、彼も私も、記憶が明確でないからだ。 しかし、どういうわけか、彼の兄の 柿崎実( マコト ) さん のことは、それ以前から知っていた。 この理由も、今となっては分からない。

    

 東小学校4年生の夏休みのある日、実( マコト ) さんから号令がかかった。

 と言うと、何やら大げさだが、ある提案があった。

 夏休みで退屈していたから、明石町番外地に住んでいた我々男児は、すぐにその提案にのった。

    

 その提案とは、明石沢の小川が、開拓方面に行く道路に埋設されている土管から流れ出たところに、石を積んで池を造ろう、ということだった。

 中学生だったマコト さんを除いて、少年たちは小学校3〜5年生。 夏休みで退屈している。 作業に対する持続性はないものの、皆んな元気がいい。 目的も明瞭。 勉強に勤しむ少年は誰もいない。 玉石はその辺にころがっている。 この池は、3日ぐらいで造りあげたような気がする。

   

 そのうち、マコト さんがその池に、イカダを浮かべようと言い出した。 この話しにも、皆んなのった。

 当時、木の切れ端といえども、簡単に手に入る時代ではなかった。 しかし、どうにかこうにか板切れを集めてきてイカダを作った。

 

 作ったイカダは、人が乗らなければ浮かぶのだが、誰かが乗ると沈んでしまう、というシロモノだった。 板と板の間が隙間だらけだった。 その上、池が小さくて深くもない。 それでも、皆んなでワイワイガヤガヤと楽しく遊んだ。

   

 明石町の他の地域から、我々が水遊びをしているのを、見にきた子どもたちもいた。

 水着を持っていたのは、板倉さんちのチイちゃん だけで、他は、皆んなズボンとシャツをずぶ濡れにしながら遊んだ。

 水はきれいだが冷たい。 そのせいか、私は、右足が傷ついていたのに気づかなかった。

 イカダを作ったクギで引っかけたものと思う。 血が滲んでいたが、痛くはなかった。 普通に言えば、神経が鈍い、ということだが ••••••。

 その傷ついた箇所は、ちょうど、タコがあった箇所だった。 左足のタコは今でもあるが、右足のタコは、そのとき以来なくなった。

   

 

 この小川の水はきれいで、水道が敷かれるまでは、番外地に住んでいた人たちは、鉄橋の近くまで行って、水をバケツに入れ、天秤棒で担いで各自の家に運んでいた。 この作業は、おカアさんたちの仕事だった。

   

 前回投稿した、服部商店の横の溜池での消防訓練 で言及した、飯田さんが編集した年表から再度抜粋すると、

『1953年( 昭和28年 )11月に、明石町専用水道が創設される。明石の沢の取水堰より、下流270mに浄水場を設置。』

と、あるように、とにかく、きれいな水だった。 

(2021年5月8日 記)

     


 (筆者略歴)

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


1件のコメント

  • シューパロ川に注ぎ込む何本もの小さな沢が大夕張にはあった。
    静かな夜、耳をすませると、滝の流れ込むサーという音が聞こえていた。
    _
    明石町番外地、明石沢での昭和30年代の子どもたちの水遊び。
    子どもが、まず思いつくのは沢をせき止めて、ダムをつくることだった。
    自分は、せいぜい畳一枚分くらいの大きさだったが、磯次郎の沢でダムを造った人の話を聞くと、泳ぐことができるような相当な大きさだったという。
    イカダを造ったここの池も相当な大きさだったに違いない。
    _
    わき出る水は本当に綺麗だった。

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