鹿島東小学校裏山の残雪とアコーディオンカーテン | 高橋正朝 #39
例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。
昭和36年 鹿島東小学校10周年の職員写真
鹿島東小学校のグランド横が、シューパロ川の河原だった。
そこの河原に比して、対岸の河原は狭かった。
狭かったどころか、所々、山裾の小さな崖が川に接しており、しぶきが砕け散るのが見えた。
グランドで体育の授業するときや、休み時間などに、級友たちと河原に下りて、なるべく平たい小石を見つけ、川面にむかって低く投げつけ、小石が何回ジャンプするかを競ったものだった。
2年生になってから、多分5月の中旬ぐらいのとき、先生が、クラス全員を河原に連れ出した。
みんな、教室で勉強するよりも、外の、明るい春の陽ざしの中で、何事かをするほうが断然嬉しいし楽しい。
先生は言った。
「 山に残っている雪を見て、何の形に見えるかな 〜? 」と、問いかけたのだ。
ウサギに見えたり、ゴジラに見えたり、汽車に見えたり、同じ場所の雪を見ても、生徒によって違うものに見えて小さな口論があったりした。 面白かった。 当時の大夕張は、陽当りの悪い山ひだには、5月中旬でも、結構残雪があった。 その残雪を利用した、情操教育とでもいうのでしょうか ••••••。
2年生になったときの最初の担任は、優しそうな小柄な、男性の先生でした。 事実、優しかった。 しかし、その先生が病気になったため、教わったのは、わずか2週間ぐらいだけだった。
失礼ながら、その先生の名前は覚えていませんが、飯田さん の資料の写真のなかに収まっています。
添付の写真の、前列から3列目、右から3番目の男性の方がそうです。 この写真に写っている先生は、厳粛な顔をしていますが、別な、顔がハッキリわかる写真も見ています。 その写真の先生は、優しく微笑んだモノでした。
資料を興味深く見ている最中に、今までに、3回ぐらいその写真を見ましたが、今回の投稿に添付しようと思ったら、こういうときに限って見つかりません。 そのうち、またその写真を見つけたら、サッサと取り込んでおきます。
その方が病気休養した後任は、女性の先生。 河原に我々を連れ出した先生です。 2年生および3年生と、2年間も教わったのに、この先生のお名前も覚えていません。
『 ふるさと大夕張 』 の写真資料のなかにも見当たりません。
添付した写真にも写ってないようです。 雰囲気的には、6年生のときの担任だった 、庭田和子 先生 に似たものを持っていた。
私が6年生になって間もないある日、両先生が、それぞれのクラスの生徒を率いて、体育館に集合する際、廊下で出遭って4〜5分ぐらい立ち話をした。 その様子を見ていると、親しげな雰囲気だった。
庭田和子 先生 のほうが、3〜4歳ぐらい年上の感じで、鹿島小学校から転任したばかりだけど、以前からの知り合いだったような談笑風景だった。
その女性の先生は、1年生のときに教わった、長谷川ヒロ子 先生 よりも、3〜4歳ぐらい年上の感じだった。
『 ふるさと大夕張 』の資料を読むと、私が2年生に進級した時期に、 長谷川ヒロ子 先生 も、2年生の担任になったような感じを受けますが ••••••。 もし、そうだったとしたら、その女性の先生とは、同学年のクラスを担当した同僚だったかもしれない。
添付の写真には、長谷川ヒロ子 先生 は写っていません。 この写真が撮られた時期には、富野小学校から南部小学校に転任して、そこで教鞭を執っていたのではないでしょうか ••••••。
2年間教えてくれた、女性の先生も写っていません。
庭田和子 先生 は写っています。
私の当時の同級生では、菊地順一 さん、徳田佳子 さん、永原伸二 さん、猪手克( イノテ カツジ)さん、以前、『 続•大夕張つれづれ#7 』で、バツ当番させられたことを書き込んだことがあったときに言及した、明石町に住んでいた ヤスコさん、という、少数の人たちの名前しか思い出せません。 彼らに訊けば、その女性の先生の名前は分かるのかもしれませんが •••••••。
ただし、猪手克( イノテ カツジ )さん に、10年ぐらい前に、東京でお会いしたときに色んなことを訊きましたが、4年生に進級する直前に、南部に引っ越したので、東小学校時代のことはあまりよく覚えていない、ということでした。
当時、同級生だった、菊地順一 さん、徳田佳子 さん、永原伸二 さん、の名前は記憶していましたが ••••••。
長谷川ヒロ子 先生、南部小学校で、もしかして、猪手克( イノテ カツジ )さん を教えていたりして ••••••。 そんな偶然あるわけないか ••••••。
冬は、例によって、交代でストーブの周りで暖をとりながら授業をするわけですが、2年生のときの記憶はスッポリ抜け落ちています。 が、3年生のときのストーブ周りの情景は、わりと覚えています。
3年生のときは午後にも授業があり、弁当持参でした。 しかし、毎日ではなかった。 週2回ぐらいが弁当持参だったような記憶だが、間違っているかもしれない。
2年生のときの教室は少々かわっていた。 アコーディオンカーテンがあったのだ。 隣の教室とは、アコーディオンカーテンで仕切って 2教室にしていた。
このアコーディオンカーテンを挟んだ2クラスは、何か特別なときに、アコーディオンカーテンをとり払い、1部屋にして催し物をした。 その催し物は何だったかハッキリとは覚えていない。
2年生から3年生に進級したとき、アコーディオンカーテンのもう片方の教室に移ったが、そのときは、3年生としてだった。 知らないうちに、板壁になっていたけど••••••。 確信はないが、5月の連休中に改造したのだろう。 もしかすると夏休み中だったかもしれない。 かなりあやふやな記憶だ。
この2つの教室の空間は、想像するに、鹿島東小学校創建畤には、生徒の教室のためではなく、他の目的があったのではなかろうか。 生徒数が増えたため、元は、1つの空間だったものを、工事が簡単なアコーディオンカーテンで仕切り、2つの教室空間にしたのだろう ••••••。
当時の鹿島東小学校で、他にもこのような、アコーディオンカーテンで仕切られた教室があったかどうかは知らない。
(2021年5月15日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。