明石町駅周辺の白地図と沢の名称 その1 | 高橋正朝 #41
例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。
【 沢の名称 】
【 明石町周辺 白地図 】
昭和33年の資料を基に作成。建物配置
などは、昭和33年時のもの。
【 大根収穫 】
【 対岸から見た明石町 】
昭和40年頃
『 続•大夕張つれづれ#32 明石町駅付近の沢 』の投稿で、【 沢の名称 】の略図を元に、私の記憶を書きました。 そのとき、明石沢の位置について意見を述べました。
私は、大夕張の沢の名称はひとつも知らなかったので、その略図は、子ども時代の記憶を呼び覚ますのには、貴重なものでした。
飯田さんが、今週初め、2021年5月17日に、【 明石町周辺 白地図 】を載せてくれ、両者を比較したことで、沢に関する記憶と、その他のことが、さらに鮮明になりました。
先ずは、【 明石町周辺 白地図 】に表記されている大夕張鉄道から。
【 明石町周辺 白地図 】に表記されている大夕張鉄道は、このままの写真だと1本の線に見えますが、画面をピンチアウトすると、2本の線で、間が白黒のマダラに描かれているのがわかります。
明石町駅のネームの上に、2本の鉄路が見えます。 ホームそのものは描かれていませんが、そのスペースがあり、両側に、鉄路がハッキリと描かれている。
このような略図で、鉄道のルートをここまで描くのは大変珍しい。 この略図を見て、忘れていた記憶の一部分が惹起された。
以前、書いたことですが、通常、千年町を出発した汽車は、明石町駅で停車するときは、ホームのシューパロ川側に停まる。
南部を出発した汽車は、ホームの山側に停まる。
汽車が、ホームのどちら側に停まるかは不明であったとしても、この【 明石町周辺 白地図 】では、ホームの両側に、鉄路があることが明瞭に示されているので、往路の汽車と復路の汽車が、明石町駅で、ホームを挟んで相まみえることがわかる。
この略図の作成者はスゴイですネ。 鉄道ルートのみならず、沢や崖のスケッチも詳しく描いている。 作成者は、測量か土木の技術者でしょうか ••••••。
【 明石町周辺 白地図 】は、昭和33年の資料に基づくことが書かれているくらいだから、当然、鹿島高校( 東高 )は、影も形もない。
この白地図には、購買会が図示されており、そこから少し千年町寄りに道路を歩くと、未来の東高に行く道に枝分かれする、 その枝分かれした道が、大夕張鉄道を横断している。
この横断部分についてよく見ると、鉄道が2本になっている。
それで思い出した。
ここの横断は、鉄道が2本だったことを ••••••。
白地図に描かれている山側の炭住と鉄道の間、ホーム寄り、つまり、【 明石町周辺 白地図 】の横断道路の左手に池があった。
この池は、白地図には載っていない。 しかし、この 資料は、昭和33年の資料に基づくと書かれているから、断片の資料はもっと旧かろう。
上述した池は、断片資料作成時にはなかったことも考えられる。 実際、私が小学生当時、大きさはともかく、2つの池ができたのだから ••••••。 そのことは、別な機会に書きます。
以前、明石町駅のホームからは、その池は見えなかったのではないか、と書いたが、この白地図を見ながら過去に飛んでホームの端、千年町寄りに立ってみると、見えていた!!!なぁ〜んてネ ••••••。
話しを元にもどす。
次いで、白地図の、ホームの山側に描かれている小川に注目した。
この小川は、12時の方角から緩い左寄りのカーブを描きながら、鉄道のほうに向かい、その鉄道に平行に走り、ホームの千年町寄りのところで小川の線が消えている。
この小川の L 字の角の部分に、立て形の楕円形の線が見える。 この略図を見た当初は、この楕円形は、作図のときにペンが滑ったか、コピーの際に、ゴミがくっついて写り込んでしまったのだろう、と思って、特段注意を払わなかった。
しかし、待てよ、と思い直した。 これは、【 大根収穫 】の写真に写っている溜池ではなかろうか、と。
この推測は、まずまず、間違ってはいないだろう。
池の形状は覚えていない。 というか、高所からそれを見たことはないのだから、当然だ。
この溜池から出た小川が、白地図では、ホームに平行に走っているが、この部分は、地表にでていたかどうかは全く記憶にない。 というのは、この溜池とその周辺にはずいぶんと来ているのだが、溜池から小川が流れ出ていれば、それを追って行ったろうと思う。
この溜池に流入する小川には何回も入り込んでいる。
ザリガニ探しである。
この小川の水はわりときれいで、ザリガニは棲息してなかったようである。 1匹も見つけることはなかった。
ザリガニ探しのときなど、溜池に小川が流入する箇所を、興味本位に探すのだが、わからなかった。 流入する小川の水はきれいなのだが、溜池の水は、水草や藻が生育したりして濁っていたからだ。
本当は、真剣味がなかったからだが ••••••。
3人のオバさんが、大根を担いで、道とは言えないような踏み跡の道を歩いているが、その道のために、陶管かコンクリート管を、道の短い横断部分に埋め込んでいたのかもしれない。
3人のオバさんの背景にあるヤブが、その小川に沿っていた。 ヤブ下にある小川のほうをチェックすれば、わかったかもしれないが、それは、今にして思うことだ。
この溜池の水が、直接流出する箇所もわからなかった。 直接見えてはいないが、水脈はホームの下を潜って、明石町駅舎のすぐ横、番外地寄りにでてきて、ブタ小屋の側を通ってすぐに滝となり、シューパロ川に注いでいた、ということは想像していた。 溜池から流出する水、全量がそうだと思っていた。 ところが、白地図に載っている、鉄道に平行している小川の位置を考えてみると、全量がブタ小屋の方向に流出していたわけではなさそうだ。
『 続•大夕張つれづれ#32 明石町駅付近の沢 』の文章の一部分を抜粋します。
★★★★★★★★
そこにも沢があり、ホームからは見えなかったと思うが、人の手が入ってない小さな池があった。 周りは畑で、せいぜい2メートルぐらいの高さの雑木が、沢に沿って立ち並んでいたというか、藪になっていたので、ホームからは、その藪は目についたと思う。 この沢も、略図には記載されていない。
この小さな池から流出した沢水が、明石町駅の線路下の埋設配管を通り、明石町駅舎と購買会の間を流れ、道路横断のために埋設された土管から、当時の服部商店の脇の溜池に吐き出された。 この溜池の目的は、消火用である。
★★★★★★★★
鉄道に平行に走っている小川と、小さな池 ( 白地図に表記されていないが、鉄道横断道路の横にあった )は、水脈としてはつながっていた可能性がある。
この水脈が、服部商店横の溜池に流入し、そこから流出した水が、【 対岸から見た明石町 】の写真中央を縦に走っている道路のすぐ脇に造られた排水溝に流れ出て、シューパロ川に排出されていた。 写真中央より、やや下方にある排水溝の側面が、陽の影となってわかりやすく写っている。 この排水溝は、生活用水の排水路でもあった。
この写真を見ただけではわからなかったが、白地図に、シューパロ川に中洲が描かれており、あらためて写真を眺めたら、5時の方角に写っている樹の向こうが、中洲のようである。
続きは次回。
(2021年5月22日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
昭和30年代高橋正朝さんが明石町に住んでいたころの沢の話。
白地図の一本の線からから沢の流れをこうよみとっていくのは、さすが。。
自分にはそこまで、まったく読み取ることができませんでした。勉強になります。
高橋さんの記述に従って読み進めていくと、明石町の水流の様子が心に浮かんできます。
いつもながら資料から自身の記憶を掘り起こしていく方法は、参考になります。
明石町の『沢の流れ』というか、山からシューパロ川に向かって町を流れていた水の流れについて、私は自分の頭の中の地図に、詳しく描くことができるようになってきたから不思議です。
そしてそれは、これまで高橋さんが、書かれてきた『大夕張つれづれ』『続大夕張つれづれ』の世界がより深く感じることができ、それは、『私の大夕張』の世界をより豊にしてくれています。
『その2』も、また楽しみです。