明石町駅周辺の白地図と沢の名称 その2 | 高橋正朝 #42
例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。
【 沢の名称 】
【 明石町周辺 白地図 】
昭和33年の資料を基に作成。建物配置などは、昭和33年時のもの。
【 明石町周辺 白地図 】の上部左側に、沢の右側面だけが、ほぼ垂直に描かれている。
少し下に、活字で、明石沢と表記されている。 これが、明石沢の本来の位置だろうと思う。
【 沢の名称 】では、明石沢は、あかしちょう( 明石町駅 ) に接触しているように描かれているが、このような矛盾は大したことではない。
瑕疵、瑕瑾の類いで、【 沢の名称 】の資料としての価値を毀損するものではない。
明石沢の水について、以前と同じことを言及することになるが、飯田さんが編集した年表から再度抜粋すると、
『 1953年( 昭和28年 )11月に、明石町専用水道が創設される。明石の沢の取水堰より、下流270mに浄水場を設置。』
と、あるように、明石沢の水は、とにかく、きれいな水だった。
この明石沢の小川が、数戸描かれている明石町番外地のエリアの左側を通って、シューパロ川に注いでいるのが、白地図から見て取れる。
番外地のエリアの反対側、つまり右側と炭住街の間にある小川が、ホーム傍の溜池から流れ出てきたものだ。
この沢水は大した水量でなかったせいか、沢の名称はついてなかった可能性がある。
ただし、国土管理の観点からすると、何らかの名称か記号はつけられていたろう。
そう考えるのが普通であり自然である。
しかし、日常的には、名前がなくても不便はない。
この2つの小川は、シューパロ川につながる前で、規模は小さいが滝になっていた。
白地図を見ると、番外地は、左右と下部は、炭住街とは切り離されたエリアであることが一目でわかる。
眼を、旭沢橋梁と明石橋に転じてみると、小川が1本の実線でなく、2本線で描かれている。 番外地のエリアの両側に流れる小川に比して、水量が大であることが、誰にでも想像がつく。 この沢の名称は何と言うのだろうか。
【 沢の名称 】の略図には、朝日沢 という表記がある。 音にすれば、アサヒサワ である。 旭沢橋梁の旭沢も、音にすれば、やはり、アサヒサワ である。 漢字表記は違うが、同じ対象物ではなかろうか ••••••。 何やら、松本清張の『 古代史疑 』っぽくなってきた ••••••。
と、ここまで書いてきて、待てよ、沢の航空写真を見たような気がするな、と思い、チェックしたら、出てきた、出てきた。
【 旭沢、竜田の沢、千歳沢 】
昭和22年 国土地理院空中写真(二枚とも)
昭和52年
旭沢橋梁のアサヒサワと、【 沢の名称 】の朝日沢のアサヒサワは、同じ対象物だったんですネ。
龍田沢と竜田の沢はどうなんだろうか ••••••。
地名から発した音が、他のモノに転嫁する際、文字、特に漢字表記が変化することがあるが、千歳沢と千年町は、その類だろうか ••••••。
【昭和43年明石町住宅地図】
【 昭和47年明石町航空写真 】
昭和22年の航空写真と、上記の昭和47年、20年以上の差があるけど、カメラの性能がずいぶん違う。
上記の航空写真では、明石町のエリアが、シューパロ川に突き出ている。 その突き出たエリア右側の、ほぼ垂直線のなかほどが、刃物で切ったような切り込んだ形状の凹みになっている。 最初、この写真を見たとき、大夕張ダムの影響で、地盤が崩れたものと思った。
しかし、白地図を見ると、かなり以前から、もしかして大昔からある凹みかもしれない。 この部分の崖の上からシューパロ川に線が描かれている。 地形の変化を示すものではないようだ。 小川にしては変だ。 この近くには浴場がある。 排水路だろうか ••••••。
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
航空写真でみる明石町の南側にある『刃物で切ったような切り込んだ』ような崖の存在。
子どもの頃、地図帳でアフリカ大陸の形から、横を向いた頭蓋骨を連想させた。
この崖の存在に気がついて航空写真を見てみると、明石町の大地が
『横を向いたゴリラが両手を上げている』姿を連想させてならない。