明石の沢からの水汲み |高橋正朝 #45
以前、服部商店横の、消防用水の溜池のときに書き込んだ内容と一部重複しますが、飯田さんが編集した年表を見ると、
1953年( 昭和28年 )11月に、明石町専用水道が創設される。明石の沢の取水堰より、下流270mに浄水場を設置。
と、ある。
番外地に水道管が敷かれるまでは、そこに住んでいた皆さんは、明石の沢に架かっていた鉄橋の近くまで行き、バケツで水を汲み、天秤棒で担いで各自の家に運び込んでいた。
その大変な作業をするのは、各家庭の、おカアさんの役目だった。
私が4〜5歳ぐらいまでの記憶だが、母親が、そこの水汲み場に私を連れて行くことがあった。
バケツは2個で、天秤棒で担ぐ。 各バケツに入れる水量は、記憶にたよると、だいたい5リットルぐらいだった。
夏場に水汲みに連れ出された記憶はない。
冬季に私を連れ出していたのは、幼児1人を家においておくと、ストーブでヤケドをするかもしれない、と危惧していたのかもしれない。 因みに、そのときのストーブは薪ストーブだった。
寒い冬に、連れ出されるのは、幼児には苦痛でしかない。 バケツに入れる水量を見て、もっと水を入れればいいのにと思っていた。 そうすれば、3回も、家と水汲み場を往復しなくてもいいのにと、子ども心に思った。 そう思っても口にはしなかった。 言えば、烈火のごとく怒るのが、想像できた。 そういう母親だった。
幼児であったから、実際に、水を汲んだりすることはしない。 運ぶこともない。 だから、作業の大変さの実感は全くない。 ただただ、寒いなかを連れ出されるのがイヤだった。
100メートルぐらいの距離だが、幼児が凸凹の雪道を歩くには、ちょっと大変だ。 数年後には大夕張と開拓 • 南部方面とつながる家の前の道路は、まだ、着工さえされてなかった。
私がバックパッカースタイルで1ヶ月間ぐらい旅行するときは、荷物は15キログラムで出発する。 若いときは20キログラムだった。 重量の半分は文庫本である。 読み終えた本は、旅行先で出会った日本人にあげるか、安宿においてくる。 荷物が、7キログラムになると、行動するのが楽になる。
1つのバケツの水量を5リットルとすれば、2つで10リットル、すなわち10キログラムだ。
これを天秤棒で担ぐとなると、肩に食い込み、かなりの重荷だろう。 しかも、バケツの中の水は動くので、雪道では運びにくい。 それを、当時のおカアさんたちが、ほぼ毎日やっていた。
しかし、世の中の行為には例外があるのが普通だ。
短い期間だったが、明石町番外地に、子供がいない若夫婦が住んでいたことがあった。 顔も名前も全く覚えていない。 この家庭では、ダンナさんが水汲みをしていた。 私の母親も含め、周りのおカアさんがたは羨ましがっていた。
(2021年6月19日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
小さいころは、まだ水を入れた瓶が台所にあったような気がする。
昭和30年代祖父が住んでいた夕張市富野で井戸用の手押しポンプを使っていたり、昭和47年に大夕張から札幌市発寒に移り住んだとき、祖父の新築した住宅では、電動式ではあるが井戸水をつかっていた。
大夕張の水道は、綺麗でおいしい水だった。