懐かしき「大夕張」| 結城雅司

20066

 神奈川県川崎市に在住しています。
 昭和34年1月、大夕張千年町にて生を受け、3歳まで居住しておりました。

 
 その後、夕張市旭町、札幌市、東京都をへて、現在に至っております。

 たまたま、道内のHPを見ていましたら、飯田様の「大夕張」HPを見つけ、拝見したところです。

 数々の写真・メール等を拝見し、懐かしさと感激、それと故郷の未来に対する悲しみがこみあげているところです。

 さて、私の父 (結城淳二)は、私が生まれた昭和34年当時、鹿島東小学校の教員をしておりました。

 父は、掲示板に掲載されておりました片山先生とは大変親交が深かった様で、公私共に親しい関係であったと記憶しております。

 片山先生の事故直後、父と共に夕張市炭砿病院にお見舞いに行き、不幸にもお命の終焉に居合わせてしまったこと、父の涙を初めて見たことをはっきりと記憶しております。

 片山先生のお嬢様の「のりこ」さんとは、夕張市立第一小学校時代同級生でした。飯田様のお父上が、炭坑病院に勤務されていたそうですが、私の祖父は当時、病院長をしていたときいています。(杉本敞一)

 

 また、母方の親戚では、富士見町に居住していた叔父家族がいました。(門脇宗男)

 叔父の家は、「クラブ」と呼ばれていた施設の前の住宅で、しょっちゅう遊びに行っておりました。

 従兄弟といっしょに、禁断の地であった「クラブ」の芝生に入り込み、子供ながらにひとときのスリルを体験した記憶があります。

 

 その叔父の家も、火事に遭遇し焼失してしまいました。

 その他親戚は皆、三菱関係でしたので多数、大夕張での生活をおくっていたようです。

 

 数年まえ、父母、東京生まれの妻、それと長男を連れ、私の故郷「大夕張」を見に行ってきました。

 鹿島東小学校の向かいにあった私の生家である「教員ブロック住宅」は、ぼろぼろの廃屋となって、その姿をとどめておりました。

 

 幼い時の記憶と現実とのギャップは、表現しきれない感情となり、内部にまで入り様子を確認したいという思いを萎えさせてしまいました。

 
 カラオケで「少年時代」を歌うたび、頭に大夕張を描いていましたが、まさか「大夕張」が、ダムの底に沈むとは考えられませんでした。

 

 今でも夢に出てくる「大夕張」は、夢のまま湖底に沈んだほうがいいのかもしれません。

 

 都会生まれの妻を連れていった時、「こんな田舎は、テレビの中だけかと思ってた。」と、のたまいました。

 ムカッときましたが、でも本心なんだと思います。

 悲しい、さみしい未来の「大夕張」ですが、故郷をもっている私は幸せですね。

 
 都会暮らしをしている現在、しみじみ感じる今日このごろです。

 
 「地図に載る仕事」によって、「地図から消える街」がある皮肉は、やるせないおもいです。

 
 このHP、「大夕張」が地図から消えても、「ずーと」続けてください。

 
 お願いします。

 
 明日、子供に「航空写真」を見せようと思います。「ここが、パパの生まれた家だよ。」て。

 

(1998年3月7日 記)


随想

1件のコメント

  • 故郷の未来が現実となった今、あらためて当時の結城さんの投稿を読み返して、子どもの頃の記憶が根っこでつながっていることを感じます。
    この投稿は、1998年の「ふるさと大夕張」の掲示板がスタートして一年もたたないころのものですが、全然色あせていません。
    結城さんが暮らした東小前の「教員ブロック住宅」は、従兄弟の石井のタカちゃんが住んでいました。そこから鹿島小に一時期通ったことがあります。

    結城さんと同じ時期、そこを訪れ、廃屋となった建物に抱いた感情は同じようなものでした。
    _
    父が晩年お世話になった炭砿病院の平池院長、その前の院長先生で、父が若い頃の院長だった杉本先生、炭砿病院の職員写真には父とともに写っていました。
    _
    倶楽部の前の門脇さんの火災、当時自分も現場に大勢集まった中の一人でした。夜の闇に燃えさかる火をみんな不安げな様子で見つめていたことは忘れられません。
    _
    そこで暮らした記憶と同時に、ダムに沈むと聞いたあの時期の心情さえ、今は共有することができます。

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