ポンプ その1 | 高橋正朝 #47
例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。
昭和43年鹿島東小学校周辺住宅地図
前回、汽車通学の項で、清水沢駅で、夕工高に行くのに、夕鉄に乗り換え、と書きましたが、奥山道紀さんから、夕鉄でなく、国鉄夕張線だという指摘がありました。 そのとおりです。 間違いをお詫びいたします。
上記の住宅地図は、昭和43年ということなので、私はすでに東京にいた頃です。
鹿島東小学校の1年生になってから2ヶ月ぐらいしてから、明石町番外地から徒歩通学するようになったから、通常は、鹿島橋を渡って東小学校に通った。 帰路は、これも、通常は、鹿島橋を渡って帰った。
しかし、ときおり、千年町を通って明石町に戻ることがあった。
小学校1年生のときでなく、2年生のときだったと思うのだが、給水用の手動ポンプを、千年町で、生まれて初めて見た。
その場所は、上記の住宅地図の、多分、黒地に白抜き文字の、朝日新聞販売所がある区画である。
ただし、ポンプを見たときに、その販売所を見た記憶はない。
当時から、そこに朝日新聞販売所があったのかどうかは知らない。 あったのかも知れないが、関心がなかったので、記憶に残らなかったのかもしれない。
そのころは、大夕張全体では、水道網はすでに完成していたはずである。
それにも関わらず、千年町のそこに手動ポンプがあったのは、水道の枝管がその区画にまだ敷設されていなかったのか、それとも、水道網が100%完成されて運営が落ち着くまでは、ときには、濁り水が出たであろうから、その濁り水を避けるために、手動ポンプの水も、しばらくは、併用していたのかもしれない。
粘土質の細かな粒が水道水に混じると、洗濯物に染み込み、特に、白い衣料は黄ばんでしまう。
明石町の炭鉱住宅でも、水道網が完成するまでは、手動ポンプで生活用水を得ていたはずだ。 しかし、私は、明石町では手動ポンプは見ていない。
小学校1年生前までの当時の私の行動範囲は、明石町購買会、阿部豆腐店、服部商店、浴場へ行く道、そして、番外地のエリアだけだ。 開拓にすら行ったことがなかった。
ポンプというものをはじめて千年町で見たとき、実際に、自分で、ガチャコ、ガチャコとレバーを動かし、水を吐き出させた。 こういう手動ポンプは、水は、連続的ではなく、断続的にしか出てこないというのも、そのとき初めて知った。
どういうわけか、ポンプは、真空を利用する、ということも聞きかじっていた。 これは、今となっては、名前も顔も思い出せないが、同級生が、兄か姉にでも教わったのを、その同級生が私に説明したものだったように思う。 水鉄砲も、真空を利用したものだと言った。
鹿島中学校1年生になって間もなく、理科でトリチェリーの実験のことを教わる。 水銀柱が、760mmになるアレですネ。 ポンプの理屈の基本原理だ。 ∪字管現象、比重、特に海水での水圧なども、同時期に教わった。
(2021年7月3日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
昭和35年より前の家の台所には、大きな甕とひしゃくがあったことを覚えている、外水道などでのけっこう長い期間このひしゃくを使っていたような気もするが、関連してのポンプがでてこない。以前にも書いたことだけれど、初めてカチャンガチャンの手押しポンプを初めてみたのは祖父が住んでいた富野小学校につながる校長住宅でだった。初めてだったと思えるのは、当時それを見てとても珍しく感じたからだ。
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「朝日新聞販売所がある区画」、そこでの記憶でいえば、岳楓寮前の朝日荘のバス停から『浴場』(なぜだろう、地図には載っていない・・・)に降りていく階段の下に、(もしかしら上かもしれない)大きなコンクリート製の防火水槽があったことを思い出した。蓋の分厚い鉄板の上で、バタバタ足踏みをして遊んだこともある。
高橋さんが、続大夕張つれづれ37『服部商店の横の溜池での消防訓練』で書いていたように、消火用の防火水槽は各町内会にあったのだと思う。
手押ポンプが、それと関係する話かどうかはわかりません。