汽笛の目覚まし|今井和弘
私は、昭和38年2月に、富士見町5丁目48番で生まれました。
その後、富士見町4丁目1番、富士見町1丁目13番と引越しをして、昭和47年5月に、ふるさと大夕張を後にすることになりました。
その9年あまりの間、思い出は星の数ほどありますが、ここでは4丁目の家での思い出について書きたいと思います。
4丁目1番の場所は、栄町の購買会の裏あたり、ちょうど、富士見町と栄町への小道の踏み切り(当然、警報機などありません)のすぐ近くのところです。
汽車は、この近辺で豪快な汽笛をならしてとおりすぎるのでありました。
正確な時刻は覚えていませんが、確か、朝6時ごろ機関車1台(単行)が走り、朝の7時10分頃、清水沢方面の始発の混合列車がとおり、まさに目覚まし替わりの汽笛をならして通りすきた。
炭山駅から4丁目の家までは、今から思うと、たいした距離ではありませんが、子供の頃、炭山駅の発車の汽笛から、ドラフト音がだんだんおおきくなり、家の前でのトドメの汽笛がなるまで、ずいぶん長く感じたもので、いつ汽笛がなるかとドキドキしながら構えていたものです。
この汽笛は、我が家にとっては朝ご飯の時間の合図でもありました。
この汽笛の音は、自分にとってまさに生活の一部となっていたように思います。
ちなみに、おそらく『父の無念と別れ』を書かれました森田さんと、小学校1・2年生の時の同級生です。
担任は正木先生でした。
私は幼稚園が少数派だった、第一聖心幼稚園組で、村山さんや山下君なども同じでした。
皆さん、お元気ですか?
(ちなみに、私は当時、とんでもない悪ガキで、知っている人は知っていると思います)
友達とのケンカの思いでのほうが多いのですが、今となってはいい思い出です。
(2000年8月23日 記)