大夕張郵便局

40500

昭和43年 大夕張郵便局。駅前の通りはまだ未舗装。

昭和43年7月から郵便番号制度が導入された。

当時は3桁ないしは5桁のだったが、夕張市鹿島は、「068-06」だった。

 

郵便局の看板にも、郵便番号の記入を呼びかけているものが見られる。

 

白黒写真に着色した画像

 


郵便局の思い出 【小笠原 憲】 1998年07月28日

 昭和36-6年に鹿島に住んでいました。小学校5-6年です。鹿島小学校の卒業生です。

 煉瓦が張られた(記憶では)郵便局は当時の大夕張では一番モダンな感じの建物でした。

 親から貰ったお釣りの1円玉を900個集めて郵便局に持っていき、初めて貯金通帳というものを手にしました。

 電話も当時の大夕張ではダイヤルすらなくて、ハンドルをまわすと交換につながるというものでした。市橋さんのお母さんの声を、わたしも受話器を通して聞いたことがあるのかも知れません。

 この夏は父親の見舞いで北海道に帰ります。時間があったら大夕張にも行ってみたいのですが、まだ行けるのでしょうか?


私の両親は大夕張郵便局職員でした 【市橋 勝】 1998年07月27日

 いよいよ、大夕張郵便局も閉鎖なのですね。

 小さい頃(昭和30後半~40年代)、よく職場に連れられて親の仕事を覗きに行ってました。

 当時は、まだ電電公社(今のNTT)と未分離で、電話交換を郵便局でやっていました。私の母は、その交換手でした。父のほうは配達員からその後事務仕事に移り、郵便業務全般(小包や電報なども)をやっていたはずです。

 局に入ると、確かに薄暗くヒンヤリとした感じがしましたね。左手に確か赤電話のボックスが設置されていて、郵便窓口と仕切られていたように記憶してます。

 私は、親に連れられて行くことが多かったので、郵便局の正面からではなく、裏口からよく入ってました。中に入ると局員の方の休憩室などもあるのですが、そこに雀卓が置かれてあり、すぐ横の灰皿のタバコと、部屋に漂っていたタバコと汗くさい匂いの、一種独特な雰囲気を覚えてます。職場という何か「大人の世界」の雰囲気を感じていました。

 日曜日など、学校が休みの時に遊びに行くと、その休憩室でよく出前をとってもらい、他の局員の方々と食事をしました。それがとても楽しかったことを覚えてます。

 私は、池田屋からラーメンとおにぎりをとってもらうのが定番でした。ラーメンもおにぎりも残さずにたいらげてましたので、一緒に食べていた局員がよく驚いてました。

 醤油ラーメンとおにぎり。この組み合わせがとても美味しいことは、その頃知りましたが、この「好み」は今も変わっていません。


大夕張郵便局  【飯田 雅人】 1998年07月25日

 私は生まれてから中学卒業までの15年間大夕張の地ですごしました。

(昭和31年~昭和46年)当時は,炭坑の最盛期で,ほんとににぎやかでした。大夕張郵便局では,子どもの頃,窓口で,よく手紙を出したり,切手を買ったりしました。

 夏でもちょっと薄暗くて,ひんやりして落ち着いた感じがしていた郵便局の中を覚えています。

 子供の頃良く利用していた郵便局も,今までの何度かの大夕張の訪問でも訪ねたことはありませんでした。そうするうちに今年の3月で閉鎖になってしまったということをききました。とても残念なことをしたと思っています。


初めまして 【杉渕 忠勝】 1998年07月23日

 初めまして、偶然にこのページを見つけました。実は僕は今年の1月12日まで、大夕張郵便局の外務職員として約3年10ヶ月勤務していました。

 今は地元の岩見沢に住んでいます。色々な写真を見て懐かしく思います。つい先日車で大夕張を見に行ったらまだ住民は住んでいるもののほとんど何もなく寂しい感じがします。また見に来ますのでよろしくお願いします。


3件のコメント

  • 郵便局横のクルマはブルバードの510型系(1967年 – 1973年)ですね。

    • 【大夕張の道路の舗装化】
      ___
      この頃(昭和42年~昭和48年)、大夕張の道路は自家用車が走り、道路も舗装化が進んだ時期でした。家の隣の田中さんの家に自家用車がやってきて、乗せてもらったのも、この頃、昭和44年頃には、東高校の先生の車に友達と乗せてもらって、夏休みを利用して函館七飯町方面に遊びに行ったこともありました。
      _
      昭和43年の鹿島小学校開校40周年の鼓笛隊パレードの写真では、ちょうどこの頃、舗装道路化が進められたいた頃の写真のようです。
      __

      開校四十周年記念パレード#4/7


      __
      『大夕張郵便局』の写真も同時期の写真みたいです。
      __
      ですから、この写真、昭和43年とします。
      __
      ブルーバード510型の年代とも合うようです。
      大夕張の舗装道路といえば、大夕張駅前から、千年町駅のちょっと先まで、という印象です。
      閉山時の写真では、市街地の道路の舗装化がかなり進んでいたようです。

  • 私は。南部に住んでいて。昭和40年から47年迄清水沢郵便局で集配業務をしていて、47年から49年迄、大夕張郵便局で、電話がダイヤル式になるまで、郵信話業務で内務に従事していました。ダイヤル式になって、夕張の郵便局にはどこも炭鉱閉山で過員となっており止む負えず退職し別な所にいきっました。
    さて、大夕張に行けるかとのことですが、人は一人も住んでいません、新しいダムが出来たため、
    大夕張のほとんどがすいぼつしてしまうからです。白金に行く橋は、2代目でしたが、東高校付近から対岸に行く、夕張岳登山用の道路が作られていましたが、最近は言ってないので道路が完成したかはわかりません。
    ところで、明石町から南大夕張駅の間に、第2農場という無人駅がありましたが、第1農場についてわかりますか、調べてみるとおもしろいですよ。新しくして有り難うございます。

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