父の事故 |内川准一
昭和35年の夏のこと、採炭夫の父は2度目の事故にあった。
大夕張の夏祭りの夜のことだった。
代々木町のアパートの間に架けられた巨大スクリーンで、屋外映画を見ていた私と妹は、会場内放送で呼び出された。
何故呼ばれたのかは、炭鉱の子供にはわかる。
詰所の人が、
「お父さんが(発破)事故に遭ったから、直ぐ家に帰りなさい。」
と言った。
家に戻ると母が、和服に着替え中だった。
今度こそ駄目かもしれない、と3人で泣きながら夜道を病院に急いだ。
病室の父は、目以外はぐるぐる巻きにされてうなっていたが、意識があった。先に駆けつけていた同僚たちは、
「良かったな、お父さんは大丈夫だ。死んだりしないから安心しろ。」
と言った。
この事故以来、夫婦喧嘩がピタリと止んだ。
母の口癖は
「2度あることは3度ある。」
になった。
「3度目の正直が来る前に炭鉱を出なくてはならない。」
と母は考えた。
炭鉱の将来に少しづつ影がさしはじめた頃だった。
そして1年と少し後に炭鉱を離れることになった。
今でもありありと思い出せる。
父の最初の事故は、ガス爆発(粉塵爆発?)だった。
そのときも夜中で、眠っていた3人は、玄関の戸を叩く炭鉱服姿の2人にたたき起こされた。
着替えをし、おしっこを済ませ、母に引きずられるようにして病院に走った。
カーテンの向こうにヘッドランプが光っていて怖かったこと、人気の無い道路に街灯が滲んで見えたことは、今だに鮮明な記憶になっている!
2度目の入院のときは回復も順調で、毎日病院に遊びに行った。
私にも病院内の探検が面白かった。
病院の裏手には隔離病棟があった。
病室内には「戦争雑誌」がたくさんあって、軍艦の名を覚えたのも病院でだった。ベッドの親父や見舞いに来ていた父の同僚に教えてもらったり、遊んでもらったりした。
しかし、この病院につらい思い出を残した人は少くないと思う。
同級生にも、当時既に片親だった友達がいた。そして、その後に起きた大きな事故のことを思うと、私と私の家族の幸福を思わざるを得ない。
(1999年1月20日 記)
小学生の頃、サイレンには時刻を知らせてくれるのと、もう一つ炭鉱の事故を緊急連絡のがあったと思う。
私は勤めて三度目の勤務地でとあるスキー場に行った時、サイレンが鳴った。12時を知らせるものだったがすごく驚いた。30年も前の炭鉱いた時のことが湧き出してきた。