三菱、大夕張炭坑買収のころ

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 手元に昭和41年8月1日発行の大夕張炭鉱労働組合『二十年史』がある。
労働組合が記述した労働者の歴史、とはいってもかたぐるしくなく、読み物としても面白い記述が多い。
時代の雰囲気や、様子がわかる部分を抜き書きしながら、ここに書き留めていきたい。

 

 以下は、明治末期、資本参加していた三菱が、大正五年、いよいよ大夕張炭坑を買収した時の話として、当時の大夕張(南部)について書かれた文章。


 三菱大夕張炭鉱株式会社(現在の南部地域)を買収して、本格的にこの地域の開発に乗り出したのは、大正五年の一月である。

 

 買収金二十五万円(当時の)はリュックサックにつめ、有江忠五郎会計主任の背にシッカリとせおわれて運んだ。

 国鉄清水沢駅から南部まで7、2キロ。

 途中、遠幌よりに、保線小屋があるだけで、山また山、重なりあうような森林は、昼でも暗く、熊のスミカでもある。

 

 山ひだを縫うように走る曲がりくねった、鉄道線路の一本道、シューパロ川本流沿いを、右に見ながら歩く。

 

 きりたつような断崖にかけられた遠幌加別川の鉄橋は、あゆみ板もなく、枕木のあいだから下をみれば目もくらみそうで、冷や汗が、スーッと背筋を伝わって、シャツやリックにすわれていく。

 

 川の流れは、緑にはえてあくまでも青く、千古の山々の峰をかすめて本流にそそいでいる。

 

 まもなく商店の軒並みがみえてくる。三菱鉱業株式会社美唄礦業所管下の大夕張炭坑についた。

 

 このときの初代炭坑長は工学士松隈三郎である。

 

 乗馬が好きで、勇払郡早来のフモンケ牧場を経営する、吉田権太郎氏が寄贈したハヤ馬(競走馬)の栗毛にまたがり、早朝にはかならず馬場に姿を見せた。

 

(馬場は大夕張営林署の南部貯木場である)

 

 明治37.8年の日露戦争のあと、大正3年、第一次世界大戦が始まる頃までは、不況のどん底で炭山に働く者の給料は山札(金券)で支払われて、指定商店から買物をしてかろうじて暮らしをたてた。

 

 

 一月、買収が正式に決まると、炭山(ヤマ)の人々はちょうちん行列などをして、全山あげて祝った。

 

 石炭は掘れども掘れども安く、明治42年生産高2万2千トン、価格120万であるが、大正三年生産高9万6千トンと四倍強にのびたけれども、価格はわずかに330万円と半分近くまで買いたたかれた。

 

(以上大夕張炭鉱労働組合『二十年年史』S42より)

 


 

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