鹿島小学校と鹿島東小学校の学級数|高橋正朝 #65
先日、田中( 旧姓 )敏子 さんと、久しぶりに電話で話した。
彼女は鹿島小学校の出身で、私は東小学校である。
彼女とは、鹿島中学校の1年 F 組で初めて同級生になり、入学時には、私の前の席に座り、その隣席は、苗字だけしか覚えていないが、小池 という女子生徒で、やはり鹿島小学校出身だった。
私の隣席は、常盤町に住んでいた、小林修二 さんである。
常盤町に住んでいたから、もちろん、東小学校出身だ。
私たちの席は、廊下側の最後部で、休み時間に着席しているときは、4人でお喋りしていたが、そのときは、鹿島小学校はどうの、東小学校はこうのという話しはしなかった。
過去のことより、直近の出来ごとに対応するのに忙しく、過ぎたことに関心を持つことはなかった。
あのときはどうのこうのという懐旧談は、老人になった今だから言うことで、鹿島中学校に入った当時は、数週間前までいたそれぞれの小学校を懐かしむことなんてことはなかった。
我々は、団塊の世代で、1学年上が最も生徒数が多く、次いで我々の学年、その次が1学年下、ということになる。
小学校時代は学校の教室が足りなくなり、私が、東小学校の2年生のとき、せいぜい2か月間ぐらいだったように思うが、弁当持参の2部制の授業になったことがあった。
そういう話から、学級数の話題になり、今回、初めて知ったことがでてきた。
田中( 旧姓 )敏子 さんが在籍していた当時の鹿島小学校の学年は、8クラスだったそうだ。
松組、竹組、梅組、桜組、菊組、藤組、桃組、桐組、の計8クラス。
ただし、鹿島小学校低学年時代は、ハッキリした記憶がないそうだが、高学年時代は8クラスだったことはマチガイないということだ。
対して、私が在籍した鹿島東小学校は、松組、竹組、梅組、桜組、菊組、の5クラスだった。
私のほうも、鹿島東小学校低学年時代は確信がないが、高学年時代は、マチガイなく5クラスだった。
飯田 さんが編集した、〘 大夕張地域の人口の推移 〙を見ると、上記の内容を反芻しやすい。
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
学級の座席といえば、小学校中学校に入って「変わったな」と思うもの一つに席順があった。
学期初めの席決めの前など、便宜的に座らされることがあった。
鹿島小学校では、生年月日順だった。
自分は、3月31日の早生まれだったので、いつも席の最後だった。(早生まれは4月1日生れまでだが、いなかった)
鹿島中学校では、あいうえお順になった。
だから、一番前か、二番目だった。(安部くんや、阿部くんがいたなあ・・・)
座席の一番前、それは、黒板に向かって右の列の最前列、つまり廊下側の開き戸のすぐそばだった。
黒板に向かって左側が窓になるが、ちなみにこれには理由があり、日本全国どこの学校に行っても同じように設計されている。