小学校の完全給食|高橋正朝 #66
前回、田中( 旧姓 )敏子 さんと、電話で話したことから、鹿島小学校と東小学校の学級数のことを書いた。
実は、もう一つ、電話した時点でわかったことがあった。
完全給食である。
同じ夕張市立小学校だし、しかも、当時、陸の孤島と呼ばれた限定された地域にあった2校だから、実施時期に多少のズレがあったとしても、ほぼ同じころに完全給食が始まったものと思っていた。
弟のときはあったかもしれないが、私のときは、そんなものはなかったと、田中( 旧姓 )敏子さんは言うのである。
鹿島東小学校で、完全給食が実施されたのは、私が6年生になってからだから、昭和35年( 1960年 )である。
月日までは記憶になかったので、例によって、飯田さんが編集した大夕張の歴史をチェックしたら、給食風景の写真付きで説明があり、11月1日と出ていた。
小学校の設立としては、鹿島小学校のほうが、東小学校よりもずいぶんと早い。
だから、建物は古くても、設備や備品などは、東小学校よりも、鹿島小学校のほうが優先されていたと思っていた。
HP の同じ説明欄には、以下の文もあった。
鹿島小学校では、鹿島東小学校に遅れること4年、昭和39年に給食調理室、配膳室が完成し、9月1日から、完全給食が実施されたといいます。
何と、4年ものズレがあった。
田中( 旧姓 )敏子 さんの2歳年下の弟さんは、鹿島小学校では完全給食の恩恵はなかったが、末弟は、完全給食を経験している。
上記の内容は、完全給食のことであるが、鹿島東小学校では、私が4年生になってから、週に2回か3回だったか正確なことは覚えていないが、弁当持参のときに、味噌汁やシチューなど、汁物だけだったが、給食があった。
こういう汁物だけの給食にしても、完全給食にしても、給食を調理室に取りに行くのは、当番制になっていた生徒だった。
しかし、田中( 旧姓 )敏子 さんには、そのような経験はなかったようである。
完全給食どころか、汁物だけの給食さえもなかったようである。
だいたいが、当時の鹿島小学校には、調理室なんてなかったのではないかという記憶だ。
同じ鹿島地区の小学校で、これだけの違いがあるのは、鹿島東小学校に比して、鹿島小学校の生徒数が多く、給食設備まで行政の手が及ばなかったのだろう。
実は、この写真と文は、10年ぐらい前に読んでいた。 その後も、繰り返し、数回、HP を開いたときに、写真と見出し文をみていたのだが、内容を繰り返し読んでいたわけではなかったので、完全給食の始まりが、鹿島小学校と東小学校にズレがあったことに注意を向けていなかった。 そのため、失念していた内容だった。
10年ぐらい前の当時、東小学校の給食風景の写真を見た数日後には、記載事項、すなわち、完全給食が始まった年を、歴史年表にも記載があったことを確認していたのだが、すっかり忘れていた。 ボケたなぁ••••••。
鹿島東小学校の給食では、クリームシチューなるものを、生まれて初めて食した。
うまかったなぁ〜。
それと、ニンジン、タマネギやジャガイモなどが入った味噌汁に、缶詰のサンマが入ったものがあったが、これもうまかった。
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
自分は鹿島小学校出身。
長谷川さんの『食億』へのコメントでも記したが、担任が沖先生の1年か、2年の頃、友達の弁当のおかずの『筋子』が美味しそうで母親に頼んで弁当箱に入れてもらったことがあった。
小学校の高学年、学校帰りに残した飼い犬のパンを犬にあげて、その様子を見ているのが楽しかった。富士見町詰所近くの家だった。
角食パンにチューブのジャムで絵を描いて遊んでいた
・・・・
などという頭の中の断片的な事柄が、昭和39年を境にしたものだったとわかったことで、夢の中の霧の中にあったボヤけたものが、確かにあった出来事として記憶になったような気がする。
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鹿島中学校は、自分の時は『半給食の時代』
年代によって、地域によって、学校での昼食の記憶も大きく違うようで、貧しさから高度経済成長へと駆け上がっていく時代の様相を感じる。