大夕張の思い出|石原浩二
私はこのHPの掲示板に時々登場する石原賢治の父親です。
昭和33年に九州の崎戸鉱業所(長崎県)から赴任し、昭和48年の閉山後、高島鉱業所(長崎県)に転任しました。
大夕張在勤16年間に、富士見町6丁目、2丁目、3丁目の社宅に住み、最後の3丁目の社宅は、啓心寮の裏手にあるブロック2階建で、飯田さん宅は1階、私どもは2階で、こういった形で、再会出来て大変懐かしく思います。
大夕張は私のサラリーマン生活で最も永い勤務場所で、懐かしく、思い出もたくさんあります。
1.朝、出勤時に望む夕張前岳が綺麗でした。
2.スキーを年間100日は楽しみました。
3.四季の変化がはっきりしていて、春の新緑、秋の紅葉(特に炭山駅の下の沢の紅葉)は今でも目に焼き付いています。
4.職場でも、社宅でも、皆さん人間味あふれる方たちが多く、その良さは終生忘れられません。
拝見するこのHPに登場される皆様は、在勤時の子供さん達でしょう。
飯田さんをはじめ、宇良田さん、成松さん、里見さん等お父さんは懐かしい方たちです。
私は在勤中、毎年大晦日の松明スキー、裸参り(3回出場)や、山内駅伝に参加したことが、懐かしく思い出されます。
思い出帖や、大夕張写真館の裸参りの写真に出る、吉田さん・小林さん・成田さん達は、懐かしい方たちです。
大夕張鉱業所は人材豊富な職場でした。
そういった職場に勤務出来て大変良かったと思います。
私世代以降の方で、パソコンに興味をお持ちの方もあると思いますので、そういう方を掘り起こせればと期待しています。
このHPは、長男の賢治に教えられて知りました。
時々ではありますが、パソコンをさわって、このHPを見ることで昔を思い出しています。
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親父殿からのファックスが有りまして、忠実に書き込んでおります。
掲示板のプリントを送っていましたが、実家にパソコンセットしましたんで見ることも書き込むことも出来ます。
実家に帰る度、操作方法を伝授しています。
(石原賢治)
(2001年8月15日 記)
この投稿は、最後に住んでいたブロックの上の石原けんちゃんのお父さんからのものでした。
当時、九州の鉱業所から赴任してくる職員の方々も多く、となりの菊池トシボーのお父さんもそうではなかったかと思います。
父母の年代の方からのお話は、貴重で懐かしく、嬉しかったことを覚えています。
書かれているようにその年代の方の話を掘り起こすことができれば良かったのですが、なかなかネットでの広がりは限界がありました。
当時、家に『月が出た出た 月が出た よいよい』と炭坑節の一節が書かれていた置物だか、壁掛けがあり、九州と北海道の鉱業所のつながりを感じさせるものでした。