鹿島中学校 K 組の理科の実験台 | 高橋正朝 #67

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 私が、デンスケこと大宮六郎先生が担任だった鹿島中学校2年生のとき、鹿島中学校の我々の学年のクラスが、1学級減らされた。

 1学期の初期のことだったように思う。

 解散したのは何組だったか覚えていない。

  

 大夕張を出ていく家庭が多かったから、生徒数が減ってくるのは、当然といえば当然だ。

    

 私が在籍した2年 組は解体されなかったが、1学級減数になったので、解体されたクラスの生徒は、他のクラスに振り分けられ、そのときの各クラスの生徒数は、一時的に55人前後となった。

 結構な人数だ。しかし、その後にも大夕張を出ていく家庭が続き、結果的に、我々の学年の1クラスの生徒数は、52人前後になった。

  

 K 組は、元々は、理科の実験室だった。したがって、クラスの中に、水道栓がいくつかあった。水場のすぐ横は、セメントと種石を混ぜて表面を研いた、人研ぎという人造石の実験台だ。 もっとも、当時は、人研ぎという名詞は知らなかったが ••••••。

   

 ある日、HR で、S子が、騒いだわけではなかったが、結構、大きな声を出した。 元々、地声が大きなほうで、賑やかな女子生徒なので、まぁ、目立つのだ。

    

 HR の司会は、苗字のイニシャルは、Nという男子生徒だった。

 そのNは、S子が騒いだ、ということで、Nは、すぐさま、司会者の権限で、人研ぎの実験台に正座させたのだ。   

 S子は、反抗せず、あっさりとNに指示されたとおりに正座した。

 S子は、こういうことには潔いのだ。彼女は、習い事で、正座には慣れており、照れ笑いしながら正座していた。

   

 デンスケ先生は、暴力沙汰ではなかったせいか、生徒の自主性にまかせていた。   

 実は、その出来事から1〜2週間前に、S子が、Nをやり込めたことがあったらしい。 そのカタキをとられたらしい。

 

 その出来事は、私は知らないことだったが、別段、ケンカというものではなかったので、S子はよく覚えていないそうだ。

 まぁ、ヤカマシイが、そういうアッケラカンとしたカラッとした性格である。

    

 Nは、中年ぐらいのときに、鬼籍にはいったようだ。

    

 今回、電話で話したら、Y子という女子生徒が亡くなったのを、S子から聞いた。

    

 老人になると、こういう話が増えてきますネ ••••••。

(2021年11月20日 記)


(筆者略歴)

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


1件のコメント

  • 学級編成基準日というのがあり、5月1日の人数で学級数が確定する。
    このため、現場では、4月に編成された学級が、解体されるという悲劇(!?)が時としておこることがある。
    この時の状況もそうだったのでしょう。
    人研ぎ・・・理科室水道の横の台、の上に座ったS子さん、理科室が教室だったからこそのエピソードですね、
    面従腹背、さすが大夕張の女の子、たくましい。

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