帯向酒店の電話と社内電話|Kawauchi Masami
大夕張に、2種類の電話が有りました。
私が帯向商店に働いてた頃、昼ご飯に、池田屋食堂から出前を取っていました。
帯向商店は、三菱購買会の前にありました。
私が15歳の時、社長は50〜60歳くらいでした。
お婆さんもいて当時85歳くらいだったので、私達より2世代上で、大夕張では昭和のはじめから酒店してたかも知れません。
当時の大夕張の商店の電話は、ダイヤルが無く横に(発電機)を回すようなハンドルが有りました。
使い方は、受話器を取り、横のハンドルを2~3回回すと交換士に繋がり、女の人が出ます。
その人に相手の電話番号を言うと、繋げて貰えます。
私が働いていた伊藤釣具店の隣の帯向商店は、お兄さんが経営してて、駅前の荒川商店の隣の帯向酒店は、弟さんの経営でした。
そちらの方が、遅く開店したのでは、ないでしょうか。
また、少年工の時、三菱の会社に電話が有りました。
ダイヤルは、普通の電話と同じで、最高3桁の番号を回すと交換士がいなく、直接、社内電話が使えました。
三菱鉱業所の電話は、遠くは清水沢の駅まで、各駅毎にも有りました。
清水沢の保線区に親戚がいて、母が緑町詰所から、電話してた事が有りました。
こんなのものありました。
2ヶ所をつないだ電話。
当時のズリ山は スキップと言ってズリ山の下から上の方へ、10屯くらいズリが入る入れものを32mmの太いワイヤーで引き上げていました。
巻き上げの合図は有るのですが、細かい打ち合わせをする時、上と下で話が必要でした。その時使います。
南大夕張のズリは、全部ベルトコンベアーで必要ありませんでした。
(2021年1月5日 記)
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。
大夕張に、電電公社の公衆回線と三菱の社内回線があった。
公衆回線である帯向酒店の電話番号は、25番。
弟さんの駅前の店は147番だった。
そんな数字を眺めているだけで、なんとなく家族の物語を感じる。
帯向酒店は、大夕張に早く入った店で、電話も古くから使っていた方だったのだろう。
電話番号の並びも会社関係に続いて店舗の中では、早いほうである。
ただの電話番号の数字ではあるが、いろいろと想像するばかりである。