鹿島小学校 校長住宅

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 1997年(平成9年)の鹿島小学校閉校の年の訪問。

 昭和50年代頃までは、グラウンドの反対側には体育館があり、千年町の方からその大きな校舎がよく見えていた。

 

 小学校の西側をまわっていくと、道路をはさんで校長の教員住宅があった。自分の記憶でいうと、昭和42年頃の「岩佐佐太吉校長先生が住んでいた住宅」としての記憶が残る。

 その後も歴代の鹿島小学校の校長住宅として使用されていたようだ。

 

 後ろに、宝沢の川が流れ、その崖の上に立つ。

 泉町を下に見るこの通りの建物は、写真にうつる3軒だけだった。

 住民が立ち退きとなる直前まで、住宅として使用されていた。

 

 そのうち一番に向こうに見える住宅には、当時の鹿島小学校の校長が住み、そしてこの校長住宅は、教頭がこの年の3月まで住んでいた。

 

 この時には、すでに誰も住んでいないようだった。

 私が、鹿島小学校の職員室を訪ねて行ったときには、すでに教頭職はいなくなり、校長が教頭を兼ねる体制になっていた。

 

 

 

 下にリンクを貼ったページにある写真は、緑ヶ丘の教員ブロックに住んだ小野さん(旧姓丸山さん)の家族写真である。昭和35、6年頃の写真だが、ちょうど後ろの鹿島小学校の体育館前に、校長住宅らしき建物が建設中(同じ特徴の煙突と屋根がみえる)であることがわかる。

2件のコメント

  • 貴重なコメントありがとうございます。
    私は岩佐佐太吉の孫です。
    祖父とは私が7歳のころから一緒に札幌で生活していました。。

    私の記憶は校長時代の祖父ではなく、定年後の祖父との思い出になりますが
    校長時代の武勇伝は良く聞かせられました。

    そのころの写真は手元になく、このような貴重な写真はとてもうれしく思います。

    ありがとうございます。

    • 「校長」とは、普段授業などしないものと思っていました。

      しかし、岩佐佐太吉校長先生は、鹿島小学校6年生の時、理科?の授業だったか教科を専科で受け持ってくれました。
      自分の先生に対する印象は、白髪の温厚で教科書を手にした姿と、子どもたちにやさしく接し、授業を丁寧に教えてくれた覚えがあります。

      だから「武勇伝」と聞いてちょっと意外な感じがしました。

      直接授業を受け持っていただいたのは、あとにも先にも自分の学生時代にはありませんでした。

      それだけに心に強く残った一年だったと思います。
      良き思い出として残っています。

      コメント有り難うございました。

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