ミズキとまゆ玉 | 高橋正朝 #74
小正月だから、ちょうど今の時期になる。
母親が、紫紅色のミズキの小枝をどこからか切ってきて、俵形のまゆ玉を小枝にくっつけて、家にあった神棚に飾った。
まゆ玉と書いたが、本物のまゆ玉ではなく、材質は知らないが、最中の皮のようなもので作られ、色は、白、桃色、黄色、青色などがあった。
この俵形の模造まゆ玉は二つに割られており、断面をぬるま湯をチョッピリつけ、それを小枝に挟みつけた。
ミズキには、模造まゆ玉だけでなく、焼いたモチを千切って取りつけたりもした。
焼いたモチだから、小枝に取りつけるときは、結構熱い思いをしたものだった。
明石町の他の家でも、この飾り付けをしていたところもあったが、七夕ほど一般的ではなかった。
寒い冬の風物ということもあろうし、飾り付けが七夕に比べると地味ということもあろう。
私の母親は函館出身である。
母親の父、すなわち私の祖父は漁師だった。 函館は漁業の港町であるが、東北地方出身者の習慣が強かったので、豊作祈念の行事である、まゆ玉飾りをする家が普通だったようだ。
当時は、娯楽は大してないし、まして冬ともなれば、生活全体が縮こまってしまい、たとえ、派手ではなくても、まゆ玉飾りをして、寒い季節のなかで寛ぎを得ていたのだろう。
明石町番外地にあった私の家には、神棚があった。
その神棚の脇に、まゆ玉飾りをつけたミズキを取り付けていた。
その神棚は、私が、鹿島東小学校4年生のときに取り外してしまった。 どう処分したのかは知らない。
正月になると、その神棚に白い半紙を敷き、鏡餅をお供えしていた。 鏡餅の上にはミカンがちょこんとのっていた。 鏡餅の左右には、小さなガラスのコップに入れたお神酒をお供えしていた。
あるとき、コップに入っているお神酒が、毎日、少しずつ減っていくのに気づいた。
それを母親に言ったところ、
「 神様が、毎日お神酒を飲んでいるの 」
と言った。
5歳児だった私は、それを信じてしまった。
純情というか、純真というか ••••••。
今の5歳児は、そんな説明は信じないだろう ••••••。
(2022年1月15日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
子どもの頃、お正月ともなれば、一年の中で最も晴れがましく、新鮮な気持ちで特別な時期でした。
家の中の飾り、今もそうかもしれませんが、TVの新春番組などの放送にも毎年特別感がありました。
その特別感も日一日と薄れていき、だいたい1月もちょうど今頃、2週間ほどもたつと、そのお正月の気分もすっかり抜けてしまいます。
その気持ちが一年続けばいいのになあ、と何度思ったことか。
そういえば、お正月のころか、過ぎた頃、祖父が神棚から降ろした御神酒を
「神様がくださったありがたいお酒」
だといって、毎年飲んでいました。
これは祖父の年中行事の一つだった。