忘れ得ぬ鹿島小学校 |野崎昭雄
鹿島小学校校舎の写真を見て、四十数年前の小学校時代を思い出しました。
同校2年生に編入学したのは、昭和26年度でした。
そのときの担任は、若くて活発な尾崎という女性教員でした。
在職中に、あとから赴任してきた西村先生と結婚しました。
西村先生は、背が高く、スポーツマンで、歩き方に特徴ある方でした。
この2年生のときの冬に少々大きな地震があり、西側の便所の廊下が傾き、使用できなくなったことを記憶しております。冬というのは、教室にストーブがあったことを記憶しているからです。ただ、種々資料を調査したのですが、このときの地震発生を証拠づけるものがみつかりません。
私の記憶違いでしょうか。
3年生のときの担任は、佐瀬という男性教員でした。
父から聞いた話では、お酒が相当好きで、そのために失敗もあったようです。ただ、算数が得意な同級生がいて、その同級生の家が貧しいこともあり、自宅で面倒をみながら、とくに算数の指導に力をいれるというように、熱心な方でした。
4年生のときの担任は、熊谷という女性教員でした。
体の大きい、どちらかというと、太り気味の先生でしたが、たいへん優しい先生であったと
記憶しております。
5年生のときは、小熊緑郎という先生でした。
小熊先生は当時、独身で、お酒も好きでした。先生は、学校裏の住宅に住んでいまして、同級生と
何度か、自宅へ遊びに行ったことがあります。また、学校の宿直のときは、宿直室で同僚を呼んでマージャンをしておりましたので、そのときを狙って宿直室へ同級生と押しかけたこともあります。
定時の校内巡回のときは、みんな先生にしっかりとつかまりながら、懐中電灯1本を頼りに、恐る恐る
校内を回ったことを思い出します。
6年生のときは、林 剛という先生でした。
たいへん真面目というか、厳格というか、近寄りがたい感じの先生でした。
算数の授業のとき、面積を計算する問題を、ほとんどの生徒が理解できなかったことから、教壇上で
「なぜ分からないのか」
と言って涙を流したほどの熱心な方でした。
そのとき、涙を拭くのに使ったハンカチの白さを、今でも忘れません。
これらの先生で、尾崎・熊谷・佐瀬先生の消息は、中学校へ進学して以降、途絶えてしまいましたが、小熊先生は、退職後、札幌で生活しておりましたが、約二十年くらい前に鬼籍に入りました。
林先生は、現在、旭川市で生活しております。
校舎を見て思い出した、もう1件。
1年先輩が鹿島小学校の用務員の息子でした。
用務員室は、教会側にありました。
学校が終わると、養豚業者が回収に来る前を狙って用務員室へ行き、先輩を呼び出して、給食の残りである味噌汁を出してもらい、みんなで、よく食べていました。この先輩も、昨年、室蘭市で定年を迎えました。
あの小学校は、本当に思い出多き場所です。
(2004年5月16日 記)