鹿島小学校 3階の窓から
2022-01-20
2024-03-16
32451
1997年(平成9年)の鹿島小学校。
3階の窓からグラウンド越しに外を見るために階段を上がった。
この日は、閉校式が行なわれた翌月7月、夏休みのことだった。
小学校6年生の頃、
「君たちの鹿島小学校は、児童数が1500名を超え、日本で有数の大きな小学校なんだ」
そんな先生の言葉に、実感はなかったが、少年のこころには、晴れがましくも誇らしい気持ちで、広がる町とグラウンドを見ていた、わすれがたい記憶があった。
3階の玄関上のグラウンドを見下ろす同じ場所にたった。
なにか感じるものがあるかと、ここに立ったのだったが、ただただ、カッコーやキツツキの山の鳥たちが鳴き声が響く、のんびりとした時間がながれる山の風景に、正直拍子抜けをしたのだった。あまりにも時間が経ちすぎていた。
上の写真、階段ホールから窓の風景、手元に残る4枚の写真を位置関係が伝わるべく合わせてみた。
下の写真は、3階の階段ホールから奥の資料室(郷土学習室)へ行く廊下。渡りの廊下の一画にチラリと水飲み場が見えている。1階から3階までこの位置だと思われるが、昭和33年以降の小学生は、ここで手洗い、水飲みお世話になった場所である。
訳ありて断捨離をしたためすべてが残されていない。小学校も4階建てと最近まで勘違いしていた。
98歳で亡くなった父は何故か炭鉱時代の話には気乗りしない雰囲気であった。
腕力にて人を制することがあると通知表に書いてくれた先生のお顔だけはすぐに思い出せるのだが。
4階建てだと誤認していたんだ~ 孝至くん!
何をやっても上手かった貴君の唯一の欠点が「力づく」なところ。
通知表に書かれたメッセージとは傑作だ、初めて聞いた。
今なら、ドラエモンに出てくる「ジャイアン」みたいだったよ。
私を言えば「おっちょこちょい」と書かれたlことがある。
もちろん、こんなことを書いた先生のお顔はよく覚えています。
一番下の写真。階段を登りきってすぐ、郷土学習室と書いてある先には「スミレ教室」があったと思う。
S34,5年頃に分校されて生徒達はみんないなくなった。けど、覚えている方いますか?スミレ教室のこと。
すみれ学級、今でいう特別支援学級だったと思いますが、自分のころもあったと思います。
同級生のS君がいて年度の途中で移動したことがありました。
教室の場所は忘れてしまいました。
鹿島中学校にも同じように名前は忘れましたが、あって石炭庫の奥に教室があったように思います。
すみれ学級にいたS君も、そのまま鹿島中の特別支援学級の方に入学したと思います。