台風で、明石町の炭住の屋根がとんだ|高橋正朝 #76
例によって、飯田さんが編集した住宅地図と、大夕張年表の一部をコピペ
昭和43年明石町住宅地図
昭和30年代 明石町
昭和40年頃
1959年 昭和34年
- 9月 2日,ベル47J SONY号鹿島小に来校。 17日,鹿島高新校舎建設の地鎮祭,起工式。 27日,台風15号(伊勢湾台風)により奥鹿島分校校舎大破,廃校問題もでる。
前回、# 75〘 ニワトリが翔んで明石の沢に逃亡 〙の話を書いたあと、あらためて明石町の情景を思い浮かべた。
そして、台風のことを思い出したのと、それから、15年後ぐらいのこともあらためて思い出した。
私の幼年時代、当時、台風が北海道に上陸するのは滅多になかったが、それでも、勢力が衰えた台風の影響により、普通よりも風雨が強まるようなことは、ときにはあった。
私が、鹿島東小学校の5年生のときに、勢力が衰えた台風が大夕張まで来襲したことがあった。
この台風が、伊勢湾台風だったのは、飯田さんの資料のおかげです。 大夕張に来襲した台風が、伊勢湾台風だったのは、当時は皆知っていたことではあるが、年月が経って忘れてしまっていた。
すでに台風は弱まっているものの、風雨はそれなりに強い。 明け方には雨音は小さくなったが、風切り音は相変わらず、ビュウビュウと鳴っていた。
朝は、曇り空ではあるものの、雨は止んだ。
風は普段よりは強いものの、登校にはまったく差し支えない。
いつものように、朝の7時に家を出た。
高島ラーメン店( 当時はなかった )近くに来て驚いた。
1棟の炭住の屋根が、台風で吹き飛ばされていたのだ。 勢力が衰えたとはいえ、前夜の台風の強風によるものだった。
当時の明石町の炭住は、1棟2世帯だった。
コピペした住宅地図は、当時とは違う。 津留商店は、服部商店時代だった。 また、配置が若干違うが、それは仕方がない。 瑕疵瑕瑾の類いだ。
また、住宅地図では、世帯名を書き込むため、家を横長に表示しているが、実際は、開拓方面―千年町方面の道路に対して直角に並べられているのは、写真のとおりである。
昭和40年頃の写真に、高島ラーメン店が写っている。 その右隣の炭住の屋根が、台風で飛ばされた。
その炭住には2世帯住んでいたが、そのうちの1世帯の主と、東京で、ビル管理の仕事をしているときに、職場が一所だったことがある。
その人は、明石町に住んでいたときに、消防団員だったので、見かけたときは、いつも、消防団員帽を被っていた。
背は160 cm ぐらい。 風貌は、俳優の渥美清に、80 % ぐらい似ていた。
当時、渥美清は、テレビに少しずつ出始めたころで、『 一度見たら忘れられない顔 』なんてアドリブのようなセリフを言いながら、画面に登場していた。 それで、消防団員だった人の風貌に記憶があったのだ。
彼は、守衛として勤務していたが、1週間ぐらいして、明石町のことや、台風で炭住の屋根が飛んだことを話したら、まさしく、その家に住んでいた当人だった。
家の事情で、守衛として勤務していたのは、半年ぐらいだった。 その人の名前はまったく覚えていない。
(2022年1月28日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
最近と違って「北海道には台風が来ない」という話は当時子ども心にあった。
それでも強い風が窓を揺らし、激しい雨がトタンをたたいた日もよくあった。
そんな日は一日中薄暗く、周囲の山も不気味に感じた。
夜は、窓で草木の影が激しく揺れて、布団を頭からかぶって目を瞑っていた。
「3匹のこぶた」の風で吹き飛ぶ家の絵が頭をよぎり、不安だった。
朝の青空がどれだけ嬉しかったことか。