協和会館で上映された、〘 裸の島 〙|高橋正朝 #97
これは、私が、鹿島中学校2年生のときに見た映画だ。
6月か7月頃だったような気がする。
〘 裸の島 〙は、学校から、先生は直接付き添わなかったが、2年生全員が見た映画だった。
おそらく、鹿島中学校の生徒全員が見たと思われる。
もっとも人口が多い1学年上の3年生、次いで我々、昭和23年遅生まれと昭和24年早生まれの2年生、その次が1年生である。
団塊の世代であるから、1学年それぞれ500人の生徒である。
鹿島中学校の生徒全員、1500人強が、1度に協和会館に入館したようだ。
鹿島東小学校の全生徒が、先生に引率されて、大夕張劇場に行き、映画鑑賞しているから、大夕張劇場より少し大きめな感じの協和会館なら、問題なく着席できただろうと思う。
鹿島小学校と、東小学校の生徒はどうだったのだろうか?
この映画は、低学年には、ちょっと難解だろう。
小学生のときは、学校行事として、先生が生徒を映画館に引率して行ったのが年に数回あった。 しかし、鹿島中学校に入学したからは、そういうことはなかった。
先生が、生徒を映画館に引率はしないものの、強制的に鑑賞させられたのが、〘 裸の島 〙であった。
ひとことで言えば、名作である。
我々団塊世代だけでなく、当時、大夕張に住んでいた人たちもこの映画を見ているだろうし、海外での評価も高く、ビデオで販売もされている。
皆さんご存知のとおり、99 % 無声である。
乙羽信子扮する母親が、泣き叫ぶ場面だけに音声が入った。 強烈な印象だった。
映画に、セリフが入ってなくても、十分に、観客が理解できる素晴らしい作品だった。
私が、鹿島中学校に在席している間、学校から強制的に鑑賞させられた映画は、これ1本だけだった。
(2022年6月25日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
『裸の島』は、1960年(昭和35年)の新藤兼人監督、乙羽信子主演の映画だ。
水道も電気もない広島宿禰島が舞台のある一家の物語。
名前は聞いたことがあったけれど、あまりテレビなどでも放映はされていないようで見る機会はなかった。
鹿島中学校での、映画を見た記憶は思い出せない。
一般的には、昭和40年前後から、視聴覚教材として映画も学校でみることができるようになってきた。
その頃、鹿島小学校にも映画室という名の建物があった。
16mmテープでの視聴だったと思うが、見終わったあとの満足感とパタパタという終わったテープが空転する音が結びついた印象が記憶に残る。
意外に教材としての映画の視聴は古く、『日本学校視聴覚教育連盟』という団体のページを見ると、「1938(昭和13)年 各地で映画館引率観覧が活発化」という記述もある。
学校に視聴覚室という名前の教室ができて、8mmや16mm、ビデオ等学校に整備されて行ったのは、昭和40年代以降のことだろう。
前記鹿島小学校映画室の建物も昭和45年(1970年)に取り壊されている。