鼓笛隊の誕生
昭和36年(1961年)に鹿島小学校の鼓笛隊が誕生した。
中心になったのは当時鹿島小学校教諭の田中豊一先生。
なにもかもゼロからのスタートだったらしい。
春に結成の打診を受け、その年の6月の運動会に、お披露目したという、今では信じられないほどの短期間での誕生だった。
その時の苦労話を田中豊一先生が、閉校記念誌『かしま』(H9)に寄稿されているので紹介する。
鼓笛隊の誕生
【田中豊一】
昭和36年の春、当時の萱場校長から
「鼓笛隊を作ってみませんか」
と進められ、尾崎寿美子先生の協力も得て、やることにしました。
6月4日の運動会に向け、楽器の購入、隊員の募集、指導日程、服装の準備等、毎日のように気忙しい中で着々と進めていきました。
私たちが鼓笛隊というものを知らない。
まず、自分の勉強、と、元鹿島小学校におられた一瀬三郎先生(当時岩見沢小)のところへ行き、楽器編成、指導の要領、服装等など細かい指導を受けてきました。
隊員は、約120名、楽器の未着等に焦りながら本格的に練習にかかったのは、5月25日からでした。(運動会まであと10日)
まず2日間、各楽器パート毎に練習場所を決め、小太鼓は尾崎先生にまかせ、各練習場をかけ巡り、遊んでいる子を怒鳴りつけながら大雑把に曲の終わりまで指導(曲はドラムマーチと希望の虹)
三日目からは、体育館で指揮棒に合わせて行進、曲の演奏、発進、停止、体形の変化等、児童の腕や体を捕まえながら覚えさせる。
七日目からは、グラウンドでの練習、体育館に比べ行動範囲が広いので、それに慣れさせるためにもひと苦労でした。
運動会前日には、一切構わず、パレード、マスゲーム、、ファンファーレ、挨拶、指揮者にすべて任せる。
一応はできあがった。
後は当日を待つのみ。
運動会当日、昼休みに揃いのユニフォームで、グラウンドに整列した時は、父母達、先生方もビックリ。
パレード終了後は、驚きと感動に涙しを流された方も多かったとか。
わずか10日間での誕生でした。
田中豊一先生は、昭和24年3月31日鹿島小学校に着任した。
そして鼓笛隊誕生後の2年後、昭和38年3月31日付で、14年間勤務した鹿島小学校を離れた。
その間、昭和33年(1958年)に第31回、昭和37年(1962年)に第35回の2回の卒業生を送り出している。
自分が鹿島小学生時代(昭和36年入学)にその教えを直接受けたことはないが、同時期在職されていた。
今から20年近く前、2004年に行なわれたNHKBSの『わたしのふるさと物語』(2004年)のロケでは、『鹿島25年の会』(昭和37年卒業生中心)を通じて、参加者が歌う校歌のピアノ伴奏をされた。
鹿島小学校のグラウンドのイタヤカエデの木の下に置かれたピアノ。
そこに座った白髪、瘦軀の田中先生の指先から流れる、校歌の演奏。
その時、私は何十年もの時を忘れて、心地よく、そして心をこめて歌った。
映像の中で、ピアノを弾く先生の姿や、大夕張を歩く人々の中に混じってその姿を見ることができる。
思い返してみると、先生とは、その時、御礼や挨拶の言葉さえ交わすことなく失礼をしてしまった。
あらためて御礼を言いたい。
素敵な思い出をありがとうございました。先生の演奏で歌った校歌は、一生の心の宝物となりました。
そして、ゆっくりお話を伺いたかった、と。