雪明りの街 | 夕輝文敏

19698

 

 

 正雄は、その夜いつになく酔っていた。首切り部長としての葛藤が、酒の量を増やしてしまった。

 

 以前は同僚たちと良く飲みに来たが、今の職責についてからは、一人で飲みに来ることが多くなっていた。

 

 年の瀬のススキノは、人で混み合っていた。正雄はタクシーを拾うのを諦め、少し酔いを覚まそうと歩き出した。

 

 しばらく歩くと妻の顔が浮かんできた。今朝も出がけに、些細なことで妻を怒鳴ってしまた。いつのまにか、心がささくれ、家族に対しても怒りやすくなっていた。

 

 正雄は妻に詫びる気持ちで、寿司折を買って帰ろうと思い、路地裏に入った。途中まで行くと、いつもの道が行き止まりになっていた。

 

 「あれ、道を間違えたかな」

 

 正雄は後ろを振り返ると、見慣れたビルのネオンが目に入ってきた。

 

 「やっぱり、この通りでいいんだよなあ」

 

 そのとき、ふと左側を見ると、人一人がやっと通り抜けれるような隙間がビルの間にあった。

 

 いつもの正雄なら、こんなときは躊躇した。

 だが、その夜の正雄は、ためらうことなくビルの間へと入って行った。

 

 入ってみると思ったより奥行が深く、進むにつれ暗闇が迫ってきた。

 

 どのくらい歩いたのだろうか、街の喧騒も消えた頃、やっと明かりが見えてきた。

 

 「こんなところに、飲み屋があったかなあ」

 

 さらに進むと、裸電球の街路灯に照らし出された通りが見えてきた。

 

 「あれ、この通りは...」

 

 正雄は酔いながらも、雪明りの通りを凝視した。

 

 それは、正雄が生まれ育った炭鉱街の駅前通りに良く似ていた。

 通りは人の気配もなく、深い雪に包まれ静まり返っていた。明かりの消えた建物を、街路灯がやさしく照らし出している。

 

 正雄は、ゆっくりと踏み入った。静けさの中で、雪を踏みしめる音が響く。

 

 駅舎があって、その向かいには郵便局がある。そして、その向こうには詰所も見える。

 

 「まさか、こんなことが...」

 

 冷静に考えようとしても、酔いがまわっていて、これが現実なのか夢なのかも判断ができない。

 正雄は、とにかく先に進んでみることにした。

 

 少し歩いて行くと、一軒だけ明かりのついている建物があった。近づいて見ると、BAR・エルボンと書いてあった。そして、その隣には見慣れた食堂があった。

 

 「これは、あの街そのものじゃないか」

 

 正雄は混乱して叫んでしまった。

 

 そのとき、BAR・エルボンのドアーが開き、若い女が出てきた。それは、子供の頃見覚えのある顔であった。

 

 「ちょっと、いつまでそこに立ってぶつぶつ言っているのさ。さあ、中に入って」

 

 正雄は女の後について、店の中へと入った。

 カウンター式のボックスバーで、店の中には誰もいなかった。

 

 正雄が立ったまま店の中を見渡していると

 

 「さあ、ここに座って」

 と女は椅子を指した。

 

 「この店には、子供の頃おやじを迎えに来たことがあったなあ」

 

 正雄は座りながら言った。

 

 「そうだね。休みの日なんか、男たちが昼間からいつまでも飲んでいると、母親に言いつけられて子供たちが良く来たものさ」

 

 女はそう言うと、レコードプレイヤーにドナーツ版のレコードをのせた。

 スピーカーからは、水原弘の「君こそわが命」が流れてきた。

 

 「ああ、今夜は少し飲み過ぎたようだ。こんなことがあるはずがない」

 

 正雄は、頭を振りながら言った。

 

 「そうよ、これはただの幻よ。ここには、あんたみたく心にぽっかりと穴があいている子供たちがやって来る。そして、それを埋めたくて幻と出会う...」

 

 女はタバコを取りながら言うと、マッチを擦って火をつけた。

 

 「子供たちって...俺はもう四十を過ぎたおやじだよ」

 

 正雄は少しムキになって言った。

 

 女は、タバコの煙を正雄の顔に吹きつけると

 

 「いくら大人たって、この通りに入ったときから、もう一度あの頃に帰りたいと思っているくせに。あんたさえその気なら、もう一度あの頃に戻してあげてもいいんだよ」

と意味ありげに笑いながら言った。

 

 「そんなこと、できる訳ないだろう。だいたいあんた変だよ」

 

 女は子供をあやすような目で正雄を見ると、目の前にボトルとグラスを置いた。

 

 「それができるのよ。この酒をグラスで一杯飲み干すとね。でも、この酒は高いわよ。そう、今夜は、三万円でいいわ。さあ、どうする」

 

 正雄は、心の中を見透かされているような気がしてきた。今夜の自分は、この女の前では、赤子も同然なのかもしれないと思えた。

 

 「じゃ、一杯もらおう」

 

 正雄は、財布から札を出すと、カウンターの上に置いた。

 

 「あんたは運の良い人だわ。ここでことわれば、心の隙間は一生埋まることなく死んで行くところだったのに。でもね、この夢はその日の夜中までよ...」

 

 女はカウンターの金を受け取ると、何やら書き始めた。

 

 「はい領収書。これが、あんたの夢の証人になるわ」

 

 女は正雄に領収書を渡すと、グラスに琥珀色の酒を注いだ。

 

 「さあ、みんなに会っておいで...」

 

 正雄は女の顔をじっと見た後、グラスを飲み干した。

  

  

 朝方、正雄は激しい喉の渇きを覚え、目を覚ました。

 布団から起き上がろうとしたとき、いつもと家の様子が違うことに気がついた。

 隣の布団を見ると、妹の芳子が寝ていた。それも小学生のような顔をした妹であった。豆電球の明りの下、目を凝らして見ると、居間には父と母が寝ていた。

 

 「どうして、こんなことが...」

 

 正雄は、混乱しながらも、水を飲もうと布団から抜け出し立ち上がった。すると、背丈が小さくなっていることに気がついた。そっと流しまで行って、電球をつけると鏡を覗いた。そこに写っているのは、小学生の自分の顔であった。

 

 「えっ...」

 

 正雄は、声をあげてしまった。

 

 そのとき、正雄の母は、まぶしそうにこちらを見ながら

 

 「正雄どうしたの、こんなに朝早く。風邪引くからまだ布団の中に入っていなさい」

と言った。

 

 「うん、ちょっと喉が渇いたもんだから。すぐ寝るから」

 

 正雄は、自分の異変に気づかれないように言った。

 

 布団に入ると正雄は、昨夜のことをもう一度思い出してみた。すると、BARエルボンの女の顔が浮かんできた。そして、女とのやり取りをはっきりと思い出すことができた。

 

 確かに、あの女の言ったとおりになっていた。

 

 (これから、どうしよう...)

 

 正雄は、仕事や家庭のことを振り返ってみた。すると、いつもイライラしている自分の姿が見えてきた。そんな日々の生活の中で、あの女が言ったように、もう一度子供の頃に帰ってみたいと願っていたかもしれない。

 

 正雄はこうなったら、今のありのままを受け入れてみようと思った。すると心が落ち着き、再び深い眠りへと落ちていった。

 

 「お兄ちゃん、起きて、もう少しでご飯だよ」

 

 芳子は正雄の体を揺すりながら言った。

 正雄は目を開けると

 

 「ああ、わかったよ」

と言った。

 

 「明け方に電気なんかつけて、もぞもぞしていたから、二度寝してまだ眠いんだべさ。でも、今日は年越しで忙しいんだから、もう起きてよ」

 

 そこには、朝げの支度をしている若き日の母がいた。

 

 真赤に燃えている石炭ストーブの傍らでは、父が新聞を読んでいた。

 

 「今日は大晦日か。年が明けたら正雄も中学生だ。あの洟垂れ坊主が中学生だもんなあ。早いもんだ...」

 

 正雄を見ながら父は言った。

 ・・・

  今の俺は、小学校六年生なんだ。

  もうじき中学に入るんだ。

  でも、待てよ。

  父さんが落盤事故で亡くなったのは、確か中学生になって間もなくだったな。

  じゃ、今日は親子四人で過ごした最後の大晦日だ...)

 ・・・

 正雄は今日という日が、特別な日であることを理解した。

 

 朝ご飯が済むと父は

 

 「さあ、父さんは二番方で夜中に帰ってきたから、もうひと眠りするか」

と言って流しの下の台から一升瓶を取り出した。

 

 正雄は父のところへ行き

 

 「父さん、今年もご苦労様でした。酒注いであげるよ」

と言った。

 

 「ほう、さすが中学生になるだけあって、感心だなあ。したら、一杯ついでもらうべ」

 

 正雄は、父が差し出した湯呑茶碗に酒を注いだ。

 

 父は正雄の顔を見て微笑むと上手そうに飲んで、布団の中へと入っていった。

 

 「正雄、父さん疲れているから、芳子連れて昼までスキーに行っておいで」

と母が言った。

 

 三交代で働いているのに、父には仮眠を取る専用の部屋もなかった。六畳二間の長屋で親子四人が生活をしていた。

 

 「母さん、兄ちゃんと一緒じゃいやだ。だって、いつも置いてきぼりするんだもの」

と芳子が母に言った。

 

 「芳子、今日はちゃんと一緒に滑るから。だから、父さん寝かせてやろう」

 

 正雄は芳子の側に行き、諭すように言った。

 

 二人がスキー場に着くと、すでに沢山の子供たちが滑っていた。

 

 山神が祭られている斜面では、赤いセーターを着たスキー部の上級生たちが滑っていた。大晦日の松明滑走にむけて練習をしているようであった。

 

 正雄はここに来る途中芳子と話をしながら、子供の頃、良くこうして一緒に遊んでいたことを思い出していた。今は、正雄の方からはほとんど連絡をしなくなったが、子供の頃は、芳子が一番身近な存在であった。

 

 正雄は、芳子がとてもいとおしく思えた。そんな正雄の気持が伝わるのか、芳子もうれしそうに正雄の側にいた。

 

 しばらくすると、正雄の友達もやってきたが、正雄は誘いを断り、芳子と一緒に滑っていた。芳子はまだ力が弱くロープ塔は苦手であったので、正雄が後ろから支えてやった。

 

 「いつもの兄ちゃんでないみたい」

 

 そんな正雄に芳子は遠慮しがちに言った。

 

 「そうだな、いつも芳子のこと置いてきぼりしてたからな。でもな、芳子のことが嫌いだからじゃないんだ。俺ぐらいの小学生って、妹を連れて歩くのが照れくさいんだよ。でも、いつだって、芳子が妹で良かったって本当は思っているんだ。だから、ごめんな...」

 

 正雄は本心からそう思って言った。

 

 「うん、わかっている。芳子も兄ちゃんのこと大好きだから」

 

 小学校三年生のオカッパ頭の芳子は、少し照れながら下を向いて言った。

 

 やがて、昼近くになった頃

 

 「芳子、兄ちゃん学校に寄ってから帰るから、一人で先に帰ってくれるかい」

 

 「うん、わかった。母さんにも言っておくから」

 

 「じゃ、車に気をつけてな」

 

 正雄がそう言うと、芳子は不思議そうな顔をして

 

 「兄ちゃん、車って自動車のこと。そんなのめったにないよ」

と言った。

 

 「あ、そうだな、間違えた。でも、家まで転ばないで、ちゃんと滑って帰るんだぞ」

 

 芳子と別れた後、スキー場から真っ直ぐな一本道を滑って行くと、やがて大きな校舎が見えてきた。

 

 正雄は校舎の前に着くと板をはずし、玄関の大きなガラスの扉を押した。

 

 静まりかえった校舎は、冷え切った空気に包まれていた。正面には体育の授業で使うスキーが立て掛けられていた。

 

 当直室を覗いたら、昼時のため家に帰ったのか当直の先生もいなかった。

 

 正雄は階段を上り三階の松組の教室へと向かった。三階にたどり着くと、廊下の窓から街を見渡した。

 

 沢山の住宅が大地に張り付いていた。人の往来も見える。正雄は目を閉じ、後年建物もなく原野になってしまった街の姿を思い浮かべた。そして、再び目を開け街を見た。

 

 「ああ、昔のままだ。この街には、これが一番似合う」

 

 正雄は、活気に満ちている街を見ているうちに嬉しくなり、心までが弾んでくるのを感じた。

 

 教室の戸を開けると、そこにはあの頃のままの空間があった。木の机を手でなぞると、ひんやりとした感触が懐かしさを体中に伝えてきた。

 

 そのとき、静寂を破り昼時を告げるサイレンが鳴り響いた。

 

 正雄は一瞬体が硬直した。

 あの日も、坑内事故を告げるサイレンが繰り返し鳴っていた。

 

 あの日、父は二番方で坑内に入っていた。

 母は詰所から知らせが来ると、直ぐに正雄と芳子を連れ進発所へと駆けつけた。その夜遅く父は運び出されたが、既に息絶えていた。

 

 落盤事故で正雄の父は、再び陽の光を見ることなく三八才の生涯を閉じた。

 

 正雄は急に父に会いたくなり、急いで階段を駆け下りると、スキーを履いて家へと向かった。

 

 正雄は、息を切らせ家の前までスキーを滑らせて来た。

 

 「ただいま」

 

 勢い良く玄関を開けると、居間では母が石炭ストーブの上で餅を焼いていた。そしてテーブルには、父と芳子が座っていた。

 

 「正雄、腹減ったべ。早くこっちに来て餅食え」

と父が言った。

 

 正雄はうれしそうに頷くと、父の横に座った。

 砂糖醤油をつけ餅をほおばると、口の中に甘い味が広がった。どんぶりには、凍りついたニシン漬が盛られていた。

 

 正雄は、どんな豪華なご馳走よりも、美味しいと心底思った。

 

 こんなにも心が満たされる食卓が、ここにはあった。正雄は、長屋の小さな空間に、こんな幸せがあったことを、長い間忘れていた。

 

 やがて、父は煙突掃除をすると言って立ち上がった。

 

 「父さん、俺も手伝う」

 

 正雄がそう言うと

 

 「そうか、正雄にしては珍しいなあ」

と父は正雄の頭をなぜ、一緒に外へ出た。

 

 父と一緒に屋根に登ってみると、長屋のあちらこちらで、同じように煙突掃除をしているのが見えた。真っ白に積もった雪が、見る見る煤で黒くなっていく。

 

 煙突掃除が終わると、正雄は父と一緒に共同浴場へ行った。

 入り口には「本日大晦日のため五時で終了」と書かれた紙が張ってあった。

 

 浴槽からあがると

 

 「父さん、背中擦るよ」

と正雄は言った。

 

 「今日の正雄は煙突掃除は手伝うは、背中は流すは、随分と親孝行だな」

と父は言った。

 

 たくましい父の背中であった。

 だが、その背は傷だらけであった。傷口には石炭の粉が入るため、傷跡はイレズミのように黒ずんでいた。

 

 正雄はそれらの傷跡を手で確かめるようになぞった。

 

 (こんなにしてまで、俺たちのために働いてくれたんだ。そして...)

 

 正雄は父の背中を見ているうちに、涙があふれてきた。

 

 「どうした、正雄、力が入っていないぞ」

 

 正雄は泣いていることを父に気づかれないように、力を込めて背中を流した。

 

 家に帰ると、母は忙しく台所仕事をしていた。

 

 テレビの上には、まだ使っていない葉書が何枚か置いてあった。正雄はその中から一枚を手にした。

 

 「母さん、この葉書一枚もらってもいい」

 

 「いいけど。正雄、それを書いたら郵便局へ行って出すんだべさ。そしたら、父さんの酒も買ってきてちょうだい」

 

 「うん、わかった」

 

 母にそう答えると、正雄はテーブルに座って葉書を書き始めた。

 

 正雄は、ここに来る前の大人の自分に書いていた。いくら気をつけて書いても、子供の文字になってしまうのが、自分でも可笑しかった。

 

 外に出ると街路灯が点され、通りは雪明りで照らし出されていた。

 大晦日の通りは、買物をする人たちが行き交い、人々が生活する躍動感に満たされていた。

 

 (街が生きている)

 

 正雄は喜びを噛み締めながら、雪の上を歩いた。

 

 やがて食堂を過ぎると、BARエルボンが見えてきた。正雄はドアの前まで近づいて行った。

 

 ドアには門松が飾られ、一月三日まで休業する旨の張り紙があった。確かに、ここにBARエルボンはあった。

 

 正雄は郵便局の真っ赤なポストに葉書を投函すると、酒屋に寄り父の酒を買い求めた。

 

 そして、懐かしい街の様子を見ながら、雪明りの通りを元来た道へと引き返した。

 

 七時近くから皆で食卓を囲み年越を始めた。

 母が朝から支度した料理が並べられていた。茶碗蒸、煮しめ、なますそして、物置で凍られたタコの刺身、シバレタ漬物もあった。

 

 母は用意が済むと芳子に

 

 「レコード大賞やっているからテレビつけて」

と言った。

 

 テレビでは、ザ・ピーナッツが「恋のフーガ」を歌っていた。

 

 「この歌もいいね」

 

 母はテレビに合わせ口ずさんでいた。そこには、歌の好きな若々しい母が座っていた。

 

 正雄は、パーマーをかけ薄化粧をした母がきれいだと思った。

 

 若くして父を亡くした母は、炭鉱病院の賄をしながら正雄と芳子を育て上げてくれた。

 

 正雄の知っている母は、おしゃれもせずパーマー気のない髪を後ろに束ねていた。そして、いつも少し背中を丸めている姿ばかりであった。

 

 母にとっても、今が人生の中で一番幸せなときなのかもしれないと正雄は思った。

 そんな母を見るのが、うれしいような、切ないような複雑な気持ちであった。

 

 父は神棚にお神酒をあげ拍手を打つと、テーブルに座った。

 

 その夜は、父も母も楽しそうに、普段は口にすることもない一級酒を飲んでいた。

 

 レコード大賞は、ブルー・コメッツのブルー・シャトーに決まった。受賞後うれしそうに語っていたフルートを持っている若者は、後年五十代に差しかかった頃、自殺したことを正雄は思い出した。

 

 レコード大賞が決まると、母はテレビのチャンネルをNHKに変えた。

 

 「レコード大賞はやっぱりブルー・シャトーだったね」

 

 母は満足そうに言った。

 

 「ブルー・シャトーは母さんのお気に入りだからなあ」

 

 父も目を細めながら言った。

 

 正雄は、母がときおりブルー・シャトーのレコードをかけていたのを思い出した。もしかしたら、母はブルー・シャトーを聞きながら、父がいた頃の生活を思い出していたのかもしれないと思った。

 

 事実、母の遺品を整理すると、ブルー・シャトーのレコードが家族四人の写真と一緒に大切にしまわれていた。

 そして、レコードジャケットの裏には「昭和四二年十月二日父さんより」と書かれていた。その日は、母の三二才の誕生日であった。

 

 少し酔いがまわってきたのか、母は鼻歌をうたいながら一旦テーブルを片付け始めた。

 

 そうしているうちに、紅白歌合戦が始まった。若き日の宮田輝が司会を務めていた。

 

 母がテーブルに座ると、父はコップを持ちもう一度皆で乾杯をした。

 

 「正雄、芳子、今日は年越だから夜中まで起きていていいぞ」

 

 父は微笑みながら言った。

 

 「今年もこうして、親子四人元気で年越をできるんだから、ありがたいね」

と母も言った。

 

 この夜が、親子四人で過ごした最後の大晦日であった。でも、正雄はそのことを口にすることはできなかった。

 

 「正雄、おまえも来年から中学生だから、十一時過ぎたら父さんと一緒に神社へ行って、裸詣り見てくるか」

と父が言った。

 

 裸詣りは、坑夫たちが厳寒の中、褌だけを身につけ安全を祈願し、山神に奉納する大晦日の勇壮な行事であった。

 

 すると芳子が

 

 「ずるい、お兄ちゃんばかり。父さん、芳子も連れて行って」

と父にねだった。

 

 「でも、芳子眠くなっても、一人で歩けるか」

 

 「いいよ、芳子が歩けなくなったら、兄ちゃんがおんぶしてやるから。だから、父さんいいでしょう」

 

  正雄は父と母の顔を見ながら言った。

 

 「よし、わかった。芳子、いい兄ちゃんいて良かったな」

 

 父は芳子の頭をなぜながら言った。

 

 「うん」

 

 芳子はうれしそうな顔をして、正雄を見た。

 

 正雄は家族四人で過ごした大晦日のことを思い出してみた。

 だが、父と芳子と一緒に神社へ裸詣りを見に行った記憶はなかった。

  

 やがて紅白歌合戦も終わりに近づいてきた頃

 

 「正雄、外は寒いから、おまえも特別に酒を飲んでみるか」

 

と父が言った。そして、コップに少しだけ注いでくれた。

 

 正雄はコップを手にすると、一気に飲んだ。

 

 「あら、おまえも父さんみたいな飲んべになるね。もうエルボンに父さん迎えに行かされないね」

 

 母は目を細め正雄を見ながら言った。

 

 「そうだな正雄、今度エルボンで一緒に飲むか」

 

 父も笑いながら言った。

 

 「何だかおいしいな。父さんもう一杯だけいい」

 

 正雄がそう言うと、母は一升瓶を手にし

 

 「それじゃ、今度は母さんが注いであげるよ」

と微笑みながら瓶を傾けた。

 

 (ああ、俺はこんなにも、両親に愛されていたんだな)

 

 そう思うと、正雄は感謝の気持ちを伝えたくなってきた。

  

 「父さん、いつも俺たちのために、体張って、石炭掘ってくれてありがとう。俺、父さんの仕事って本当に凄いと思っている。母さんもいつもありがとう。俺たち大きくなるまで頑張ってくれて...」

 

 そこまで言うと、正雄は急に激しい酔いに襲われてきた。父の顔も母の顔もぼやけ、二重に見え出してきた。

 

 やがて、父の声が遠くから聞こえてきた。

 

 「正雄、おまえも母さんのこと支えて、良く頑張ったな。父さんのために苦労かけて、色んなこと我慢させてしまった。父さんは、おまえのこと自慢に思っている...」

 

 そして母の声も聞こえてきた。

 

 「正雄、母さんも同じだよ。おまえは本当に良くやってくれたよ。おまえと芳子がいてくれたから、母さんはね、父さんの分まで頑張ってこれたんだよ。本当にありがとうね。これからも家族大事にして、芳子とも仲良くね...」

 

  母の言葉を聞いているうちに、正雄の意識は薄れていった。

 

 「父さん、母さんごめんね。俺、最近墓参りもしていないし、二人の気持ちも知らず親不孝で...」

 

 正雄はそう言おうとしたが、もう言葉にすることはできなかった。

 

 意識が戻ると正雄は、病院のベットに寝ていた。周りを見ると妻と芳子がいた。

 

 「芳子どうしてここに」

 

 「お兄ちゃんは、丸三日間昏睡状態だったのよ」

 

 「あなた、何も覚えていないの」

 

 妻はそう言うと、あの夜のことを話した。

 

 正雄は十二月三十日の夜、ススキノの路地裏で凍死寸前の行き倒れで発見された。財布には、BARエルボンの領収書が入っていた。警察は暴利バーの事件に巻き込まれた可能性もあるため、その店を探し出そうとしたが、該当する店は一件もなかったとのことであった。

 

 正雄は妻から話を聞くと

 

 「おまえにも、すっかり心配かけてしまったなあ。あの朝、辛く当たったものだから、寿司折でも買って帰ろうと思ってなあ。本当に色々と悪かったなあ」

と穏やかな表情で言った。

 

 「そんな、あなた。あなたこそ、つらい仕事の板挟みで...」

 

 妻は少し涙ぐみながら言った。

 

 「芳子にも年末年始の忙しい中、迷惑かけてしまったな、ごめんな」

 

 正雄は、芳子にも神妙に言った。

 

 「お兄ちゃん、BARエルボンって、まさか、あの街の店じゃないよね...」

 

 芳子はいぶかるように言った。

 

 「ごめん芳子、何にも覚えていないんだ」

 

  本当のことは、後でゆっくりと芳子に話そうと正雄は思った。

 

 「じゃお兄ちゃん、私家に一旦帰るから」

 

 芳子は安堵した様子でコートを手にしながら言った。

 

 「芳子、近いうちに父さんたちの墓参りに行こうか」

 

 芳子はコートを着る手を休め、一瞬正雄の顔を凝視した。そして

 

 「うん、私もそう思っていたの...」

と答えた。

 

 その日、正雄の家には沢山の年賀状に混じって、色褪せた一枚の葉書が届けられた。

 

 そこには子供の文字が書かれていた。

 

 「今家に帰っています。ここには、父さんがいて、母さんがいて、芳子がいます。まもなく、家族四人で年越が始まります。僕は皆がいてくれてとても幸せです。正雄にもこんなときがあったことを思い出してください」

 

 正雄は、雪明りの街で出会ったぬくもりを、大切に心の中にしまい込んだ。

 

(2001年『さっぽろ市民文芸NO.18』応募作『雪明りの道』改題 2022年12月公開)


(筆者紹介)

夕張市鹿島生まれ
生まれてから高校卒業までの18年間を大夕張で過ごす。『ふるさと大夕張』にはしばしば投稿していたようだが、素顔は謎である。札幌在住。


 

1件のコメント

  • 夕輝文敏さんにお願いして、2001年の作品『雪明りの道』を公開していただけるようになった。

    この作品は、これまで未公開だった。

    『イリュージョン大晦日の奇跡』を下敷きにした小説で、『さっぽろ市民文芸NO.18』に応募したという幻の作品。

    執筆された時に自分は読ませていただく機会があった。
    今回、20年ぶりに読んだ。

    その時、夕輝さんにファンレターめいたものを送らせてもらった。
    読み終わった直後の感想なので、一番正直な感想だと思う。
     
    少し長くなるが最後に引用して終わりたい。

    ————–

    (夕輝文敏さんへ)

    主人公とともに自分も大夕張に舞い戻り、おなじみの場所に記憶を重ね、父や母、あの頃の自分に出会い、知らず「恋のフーガ」を口ずさんでいました。
    そしてやっぱり最後は涙・・・。

    すばらしい時間を過ごした後の充足感とそしてありがとうの思いが湧きました。

    今から20年前、初めて読ませていただいた40代。
    『イリュージョン大晦日』の方がシンプルで素直に感動できるみたいに生意気に思った気がします。
    今読んでみると、加わった部分に共感が加わり、より深く楽しめました。
    夢中で働いていた40代。
    そのやるせない現実からの逃避願望の感情も共感的に理解できるようになりました笑。
     
    60代の今読むとあの頃とはまた違った感動でした。
    これには自分も驚きでした。
    またまた生意気な言い方をですが、原石の「大晦日の奇跡」を磨き上げた「完成作」ではないかと思えます。

    20年ぶりに読むことができたことに感謝です。いろんな発見がありました。
    ありがとうございました。
    —————
    (関連:夕輝文敏さんのこと)

    夕輝文敏さんのこと |飯田雅人

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