鹿島東小学校の運動会が雨天で中止 | 高橋正朝 #146

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 鹿島東小学校の運動会の当日、雨になったので延期になったことがあった。 2回あったと思う。 何年生のときだったかまではハッキリ思い出せない。 

   

 運動会は、日曜日に開催されていたように思う。

 炭鉱で働く人たちは3交代だったから、スケジュールに従って働いていたはずで、日曜日は必ず休日というわけではなかったろう。

 それでも、日曜日ということで、働く人の人数は少なめに設定していた可能性はあるが ••••••。 それであれば、日曜日が非番もしくは休日者が普通より多いかもしれない。

      

 いずれにしても、学校としては、日曜日であれば、父兄が大勢見に来るだろうと想定したように思う。

    

 大夕張時代の我々の年代の小学校の運動会は、ちょっとしたお祭り気分だった。

    

 鹿島東小学校の1年生のときの運動会のことは全然覚えていないが、2年生と3年生のときの運動会を見に来た父兄が、グランドの横の低い土手の上にゴザを広げて、子どもたちの競技を見物していたのはよく覚えている。 

   

 子どもたちは運動会を楽しみにしていたが、父兄も結構楽しみにしていたようだ。

    

 Masami  Kawauchi  さんが、続・大夕張つれづれ # 145 FB 版にコメントを書き込んでましたが、ちょっとした惣菜をいれた重箱の昼ご飯を食べに、生徒たちは土手に上がって、それぞれの親がいる場所を探し、そこに向かっていった。

    

 大半は、普通の賑やかさで昼ご飯を食べているのだが、かなり賑やかにしている人たちもいた。

 酒を飲んでいた父兄が少数いたのだ。 もう、すっかりお祭り気分だ。

    

 たしか、4年生のときだったと思うのだが、運動会当日が雨になり、1週間後に延期となった。

    

 1週間後の当日、快晴だったから、運動会は当然実施されたのだが、見物に来た父兄は、前年の半分もいなかった。

   

 1週間前、運動会の2〜3日前から準備していた惣菜やノリマキやいなり寿司の準備を、日にちを置かずして再度作るのが面倒に思ったおカァさんたちもいたようだ。 私の場合はオニギリだけだった。

    

 この年の運動会には、出店が、前年に比べて半減した。

 また、多分、学校側から、父兄に対し、運動会を見物する際には、飲酒を控えるよう要望が出されたのではないかと想像している。

 さらに、雨天というやむを得ない理由ではあるが、本来の運動会開催日より1週間ズレて、父兄の活気が削がれたこともあるだろう。 土手のほうを見ると、運動会の見物客は少なかった。

    

 5年生だったか6年生だったかハッキリしないが、運動会の当日雨になり、1週間延期された。

 その当日、また雨になり、再度延期か?と思ったが、その年の運動会は中止になった。

    

 その年が、5年生だったか6年生だったかを思い出せないのがなんとも情けない。

 

 運動会が中止になったのだから、結構、大きな出来ごとだった。 だから、記憶に鮮明に残っていていいはずなのだが ••••••。 

   

(2023年5月27日 記)

 


(筆者略歴)   

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。

メール宛先:tkhsmstm@hotmail.co.jp


1件のコメント

  • 前回の続大夕張つれづれの#145のコメントに書いたように本当にしょうもない記憶しかないのだけれど、お弁当の中味は結構覚えていた。
    KawauchiさんのFB版ののコメントは、次の様なものだった。
     
    「昼の食事は、重箱に『お稲荷さん』『フキの煮付け』『竹の子の煮付け』そうそうお稲荷さんには『ピンクのそぼろ』がかかっていました。それと普段飲めない『サイダー』が飲めました。あと なんでしょうか?」
     
    自分的にはこの時期の『バナナ』が、忘れられない。走ってビリケツになって家族の待つゴザの席に戻ると滅多に食べられないバナナが甘くおいしかった。なぜバナナの記憶か、いっとき調べたことがあるが、戦後の経済発展の中で、ちょうど海外のバナナの輸入が増えて来た時期になるらしい。一般の家庭でも食べられるようになったのは、1960年代の頃だ。
      
    『ピンクのそぼろ』はそういえば、最近は食べないが、当時は当たり前にお稲荷さんとセットだった。
    近所が集まったり、お祝いなど何か特別な日に食卓の上を飾った。
    それは子ども向きに親がつくってくれたものだったのかもしれない。
     
    そう思って小樽出身の妻に食べたか聞いてみると、そもそも「ソボロをのせたお稲荷さん」を知らないという。
    育った時代は同じだが、地域の違い?家庭の違い?
      
    それにしても、「ハッキリ思い出せない」といいながら、毎回高橋さんの記憶力は毎回すごい。
     
    以前鹿島東小の教員だった90になる叔母は、大夕張のことを覚えていて懐かしがって話をする方だが、その叔母に高橋さんの原稿のコピーを送ったことがある。
     
    「高橋くん、よく覚えているねえ」
    とすごく感心していた。
     
    本当に同じ小学生だったのかと、思う。
     
     

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