開拓で見た水田 | 高橋正朝 #154
開拓で水田を見たことがあった。
私が鹿島東小学校の4年生の、6月ぐらいの日曜だった。 遊び仲間3〜4人が、それぞれの家で朝めしを食べてすぐに白金の沢を目指した。
そこで2時間ぐらい過ごし、ハラ時計からすると、正午をまわっていたので、家に帰ろうということになった。
白金の沢の坂道を上り、少し歩くと、まァ15分ぐらいか、農家のオジさんが、畑のそばで休憩していた。
クビに手拭いを巻き、シャツは白っぽいもので、ズボンは紺色だった。 そこを通りかかった、細身のオジさんと何やら世間ばなしをし始めた。
2人のオジさんたちを見ながら、そこを通りかかった我々少年の1人が、
「アレ、これ水田じゃない? 」
と言った。
畑は大夕張でも普通に見るが、我々は、誰も実際の水田を見たことはなかった。
その水田は小さかった。
まだ苗と言っていい青々とした稲が植え込まれた場所には、水が注ぎ込まれていた。
「 ア、本当だ 」
「 じゃ、コレ米かな? 」
「 稲作? 」
「 こんな寒い大夕張で、稲作なんてできるのかな? 」
我々の驚きと感嘆と疑問の会話を聞きながら、農家のオジさんは笑みを浮かべながら言った。
「 これは稲だよ。マ、見たことがなきゃ知らないのは無理がないけど。大夕張の気候でも稲作はできるんだよ 」
我々少年たちは、大夕張で稲作が出来るなんて、誰も知らなかった。
その水田の大きさからすると、農家のオジさんの家で食べるだけの収獲量だろう。
イヤ、1年間に食べる量には満たないだろうと思った。
水田というのは、マンガや映画の画面では見ている。 しかし、稲作というのは、暑くて湿度の高い地域の作物だという固定観念があった。
ホント、大夕張で稲作が出来るなんて ••••••。
本物の田圃を見たのは、その時が、生まれて初めてだった。
(2023年7月22日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:tkhsmstm@hotmail.co.jp
小学校5年生の頃か、当時学研の『科学』『学習』という名の学習雑誌があったが、そのうちの『科学』をとっていた。
月に一冊郵送されてくる本には附録がついてきて、その附録が結構魅力的だった。
標本セットだったり工作物だったり、毎月心待ちしていた。
春の号だったか、『稲作セット』のようなものがついてきた。
ついてきた『種』を植えるために、ミカン箱にビニルを敷き詰め、土を入れて、水の量を調節して・・・・
いろいろやったことを覚えている。なんとか芽は出てきてこれからどう育つのか楽しみで毎日眺めていた。
しかし、・・・・青々と育つこともなく、興味もなくなって、夏を迎える前に稲はかれていた。
いつものことではあるが、大夕張の寒さでは稲は育たないだろうと端から諦めていた節もある。
だが、同じセットから結構な背の高さまで育った子もいた。
さすがに稲が実るところまでは行かなかったようである。
努力の如何でかくも結果が違うとは、その時思い知った。