〘 赤塚不二夫 〙の〘 ジャジャ子ちゃん 〙| 高橋正朝 #176
前回の私の投稿に対し、飯田さんの叔父さんと結婚した女性が、独身時代、有名マンガ家のアシスタントをされ、やがて体調を崩したことが、コメント欄にありました。 締め切りがあるので、夜昼関係なく仕事をするので、時間のリズムが狂ってしまうようです。
私の場合は、2年ほどでその仕事をやめてしまったので、体調を崩すことはなかったのですが ••••••。 イラストが載ってましたが、ちょっとシュールなポエム調ですネネ。 マンガはないんですか?
標題の話しに戻します。
〘 赤塚不二夫 〙の〘 ジャジャ子ちゃん 〙は、これを読んだ人はご存知だが、主人公は、イタズラ好きで、ちょっぴりイジワルな少女である。 見開き2ページだった。 マ、〘 長谷川町子 〙の〘 いじわるばあさん 〙を少女にしたようなものだ。
この2つの作品に、ちょっと、似たようなペーソスの結末があった。
そこの部分だけ覚えている。
2人とも、それぞれイタズラ好きだから、他人から嫌われる。 コマのセリフは正しく覚えていないが、意味としては、『 わたしだって人に好かれたい •••••• 』とたそがれる場面がそれである。
〘 ジャジャ子ちゃん 〙は、〘 少女フレンド 〙に連載されていた。
私の大夕張時代、すなわち夕張工高1年生だったときに読んだような記憶だったが、念のタメ、ネットでチェックしたら、札幌に転住した後だった。
私自身は、大夕張を離れてしまっていたが、まだ大夕張に住んでいた人たちは、そこで〘 ジャジャ子ちゃん 〙を読んでいたことになる。
私が東京に出て、劇画家のアシスタントをしていたとき、師匠が、〘 少女フレンド 〙の4週連載を何回かする短期連載の打ち合わせが編集部であり、私を含めて3人のアシスタントが同行した。
私が一番下っ端である。
そこで、何人かのマンガ家の原稿を見せていただいた。
そのなかに、〘 赤塚不二夫 〙の〘 ジャジャ子ちゃん 〙があった。 描きながらアイデアを変更しているらしく、下描きの鉛筆の跡がたくさん残っていた。
この〘 ジャジャ子ちゃん〙は、見開き2ページなのだが、読者の人気投票では、たいてい1位か2位だったそうだ。
〘 川崎のぼる 〙の原稿も見せてくれた。
これはキレイな原稿だった。 ただ一点、スクリーントーンの扱い方が目を引いた。 スクリーントーンというのは、点や直線や模様などを、薄い粘着紙に印刷したもので、原稿に貼り付けるものだ。 マンガ家だけでなく、イラストレーターのような職業の人もよく使う。 これが、彼の原稿ではホンのちょっとしか貼り付いていないのだ。
今は、マンガ原稿も、展覧会や書店のガラスケースの中で陳列されて貴重品扱いされているが、以前はそれほどでもなかったらしい。
マンガの原稿を欲しがる好事家やマニアもおり、師匠が亡くなったあとの出来事だが、原稿が何十枚か盗まれたのが、新聞に載っていた。
(2023年12月23日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
叔母のイラストですが、亡くなって初めて描いていたことを知りました。
可愛らしい絵ですが、叔母の哀しみや希望が表れているようで、胸が打たれます。
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じゃじゃ子ちゃんが、『少女フレンド』に連載されたのは、昭和40年(1965年)から42年頃だという。
同じ頃、自分はそれまで読んでいた『少年』や『冒険王』といった月刊誌に変わり、『少年サンデー』や『少年マガジン』を読むようになっていた。
それまでの月刊誌に変わり週刊誌だった。
どちらも人気があり、両方とも好きではあったが、どちらかというと同じ赤塚不二夫の『おそ松くん』が連載されていた『少年サンデー』に連載の漫画の方をより好んでいたかもしれない。
絵を描くのが好きだった自分は、それまでに鉄人28号や、少年アトムの主人公たちを線画で書くことができるまでものにしたが、おそ松くんの絵は、なかなか難しかった。かなり時間がかかって、ようやくイヤミの顔を線画でかけるようになったことを覚えている。
自分の感覚に過ぎないが、サンデー、マガジンの両誌に遅れて、のちに絶大な人気を誇った『少年チャンピオン』が創刊されたのはそのあとだった。
その頃、すでに自分は中学生となり、漫画から離れつつあった。