カルピス、不二家ハイカップ、森永コーラス | 高橋正朝 #185
![](https://ooyubari.com/wp-content/uploads/2024/02/karupisu.jpg)
私が大夕張に住んでいた当時、飲んだことのある乳酸飲料は、標題に挙げたもののうち、カルピスだけだった。
他の2つは、カルピスに似たものであろうと想像していたが、実際に飲んだのは、東京に出てからだった。
カルピスを初めて飲んだのは、私が、鹿島東小学校の1年生の、春が過ぎるか夏に入るかという時期だった。
父親の知人が、札幌から来たとき、手みやげとして持参したものだった。
その人は、〘 トクダさん 〙といい、明石町番外地の我が家に、2年間ぐらい同居していた。
背丈は普通だったから、当時のことだから、せいぜい 165 cmぐらいだったろうと思う。 細身の優しい人だった。 職業は、父親と同じ電工だった。
大夕張の景気が絶好調の時期だったが、私が幼児だったこともあり、理由は不明だが、〘 トクダさん 〙はやがて札幌に転居した。
その後、3回ぐらいは、我が家を訪問していた記憶がある。
当時、札幌から大夕張にくるのは容易ではなかったろう。
最初のときの手みやげは、赤いシロップだった。
水で薄めて飲むヤツだ。 このときの私は、幼稚園にも入ってなかった。
その後、〘 トクダさん 〙がきたときに持参したのがカルピスだった。
このときが、私が生まれて初めて飲んだカルピスだった。 水で薄めて飲んだ赤いシロップより、格段に美味かった。
私が大夕張時代に飲んだカルピスは、このときも含めて、せいぜい3〜4回ぐらいのものだった。 当時は高価なもので、日常生活で、簡単に買えるものではなかった。
当時のカルピスの広告のキャッチフレーズは、〘 初恋の味 〙。
イラストデザインは、ファッショナブルなハットをかぶった若い黒人女性が、微笑みながら、グラスに入ったカルピスをストローで飲んでいる絵だった。
この広告イラストは、ネットで検索すると、今でも見ることが出来る。
この広告イラストは、黒人差別につながる恐れがあるということで止めてしまったが、私は理解に苦しむなァ ••••••。 〘 ちびくろサンボ 〙も然りだ。
私が劇画家のアシスタントを辞めたあと、電工として働いたとき、東急東横線の代官山駅で降りて、カルピスの工場に行ったことがあった。
1人で2〜3日の仕事を、間をおいて、3〜4回ぐらい行った。
工場内であれば、カルピスは誰でも飲み放題だった。
しかし、いつでも飲み放題とは言っても、紙コップに2ハイ飲んだのは初日だけで、その後は、1パイも飲まない日もあった。
その後、カルピスの研究所の新設工事で、恵比寿に1年近く通った。
新設工事とはいっても、本工事ではなく、本工事をするための仮設電気工事だった。
当時、旧ビルの屋上には、上記で言及した、若い黒人女性の広告塔が、恵比寿駅のホームから見えた。
目立つ広告塔だった。
しかし、その新設ビルの屋上では、黒人女性の広告塔はなくなった。 新設ビルと書いたが、五十数年も前の話だ。
カルピスの経営母体も変わり、独自経営から一時味の素グループになり、今は、アサヒ飲料グループなのは、皆さんご存知のとおり。
カルピスのデザインも変わってしまったが、しかし、今でも、私は、カルピスというと、若い黒人女性のイラストデザインが目に浮かぶ。
私にとっては、気にいったデザインだった ••••••。
(2024年2月24日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
カルピスの印象的なCMが流れていたのは、高校生くらいのことだ。
すでに大夕張は出ていた。
オズモンドブラザーズ(オズモンズ)のジミー坊やが『wao!カルピス!』とTVの中のCMで叫んでいたのは、1972年の頃だからちょうどその頃だ。
今にいたるまであまりカルピスを飲んだことはない。
機会としては、「『サテン』行こう」とよく誘い合った学生時代だったろうが、そこでもメニューからカルピスを選択したことは、あまりなかった・・。
喫茶店のメニューで、コーラは良く飲んだが、後に、カルピスコーラなるものも登場したが、こちらは飲んだことはない。
だから初恋の味どころか、恋の思い出にもない・・・・。