大夕張つれづれ■紅白饅頭と東小■|高橋正朝 #27
鹿島東小学校では、 一月の元旦か、 二日目か三日目か忘れてしまいましたが、 普通の時刻に登校し、体育館で校長の訓辞がありました。
教室に戻ってから担任の先生の話があり、その後、紅白の漉し餡の饅頭をもらって帰途につきました。
多分、鹿島小学校のほうも同じだったと思います。
東京の渋谷区の代々木上原に住んでいたとき、 区役所から成人式の出席案内のハガキがきたので、 渋谷区公会堂に行きました。
記念になるものをもらったような気がするけど、 それについては覚えていない。 それ以外にもらったモノのほうは覚えている。
漉し餡入りの紅白の饅頭でした。
鹿島東小学校時代のモノと同じ大きさでした。
小学生時代、 紅白の饅頭をもらうのは正月だけではなく、 どのような日であったか覚えていませんが、 年に2回はありました。もしかしら3回だったかもしれない。
私の1学年上の生徒数が一番多く、 次いで私の学年の生徒数が多いいわゆる団塊の世代ですが、 あれだけの数の饅頭をつくるのは大変な作業だったでしょう。
あの当時、 東小学校に通うのに一番遠いのは開拓でした。
明石町番外地に住んでいた私のところより、更に1時間ぐらい歩くわけですから、同級生になったことはありませんが、中松勇治さんの住んでいたところから東小学校に通うのに2時間ぐらいかかっていたのではなかろうか・・・・・・
それ以上遠いところの人は、 分校に通っていましたが・・・・・・
大夕張ダムができるとき、 吊り鉄橋が建設されましが、 それまでは明石町を過ぎて沢を降り、 シューパロ川にかかった吊り橋を渡って、開拓農家の小林さんのところから、多少離れている沢を上って行くので、 小学校低学年には大変なことだったと思います。
下校時は、 みんな遊びながら帰るのでそれほどの苦労ではないものの、 真冬の雪の降る登校時の寒さは大変なものだったと思う。
寒いときに登校したら、 たいてい朝の授業の2時限目か3時限目ぐらいまで、 先生の指示で座席の列ごとにストーブの周りに集まり、 授業をしていました。
手足がかじかんだり、 霜焼けになったり、 眼の下から頬にかけて寒さが凍みるとか、 薄目にすると1秒ぐらいまつ毛がネッパリそうになるとか、 過ぎ去った今では懐かしい思い出です。
高橋 正朝 ( たかはし まさとも ) 2014/01/05 _ 10:21:32
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。