流れのように 流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし①-■|長谷川安造 #4 私は14年間の思い出多い、沼ノ沢を後に、昭和13年春、大夕張尋常高等小学校に転勤した。母、私たち夫婦と娘三人の六人で、青年団員や父兄、教え子に見送られ、大夕張の地に移住した。 沼ノ沢の教え子たちと、青年団員は、新築炭住の私の引越し先まで来てくれ、手伝ってくれたものだ。嬉しい志に感謝。 昭和13… 続きを読む
2丁目3番地 『流れのように』と祖父のこと 『青年の夜学』の原稿のことについては、掲示板でお知らせしましたが、こちらは『備忘録』なので、私の為に、重複する部分もありますが、書き留めていきます。 『青年の夜学』の原稿は、祖父が亡くなったあと、偶然見つけたものです。 祖父は昭和39年札幌に定年退職後、家を建て、亡くなるまで、発寒に住みました… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島中学校校舎全景 昭和40年頃 マンモス校 【藤田育雄】 今、思い出して見たら、一学年10クラスのA~Jまでありました。 マンモス学校で、左の白い二階屋根の建物の一階に科学教室がありましたね? 自分、科学クラブでしたので??? 2階建ての新校舎ができたというのが昭和35年の10月ということですから,それ以後の写真… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 大夕張駅の『NO.4』 昭和30年代 №4 【奥山 道紀】 『№3』と共に三菱鉱業が自社発注したSLです。 昭和16年日立製作所で製造され、美唄鉄道を経て、昭和22年より三菱大夕張鉄道で活躍しました。 バック運転しやすいように特注されたC56形テンダが特徴です。 前照灯も横に№が入るアメリカ形の大型のものを装着し… 続きを読む
流れのように 流れのように■青年の夜学 ~山奥の出張教育所~■|長谷川安造 #3 今から50余年前のこと(昭和19年頃)大夕張尋常高等小学校から更に15km位、(シューパロ)川の上流地点に、冬山造材所があり、そこで数十人の青年たちが働いていて、山奥の青年夜学出張教育所が開かれていた。 私は或る土曜日の夕刻、スキーで林鉄(※)沿いに、細い雪道を,造材事務所を目指し急いだ。 歩… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 遠幌駅構内 昭和35年頃 遠幌構内積下 【本間正雄】 遠幌駅構内積下は昭和35年前後で、この時期大夕張炭鉱の奥部立坑が、八百五十の近くに建設中で、遠幌からエンホロカベツ川沿いの林道から建設資材を運搬しました。 遠幌駅構内はその時の骨材の積み下ろし作業です。… 続きを読む
流れのように 流れのように■昭和16年 夕張岳登山■|長谷川安造 #2 昭和13年春から夕張岳に一番近い麓の、大夕張尋常高等小学校に勤めることになった。 この学校では早くから、児童の健康体力増進を重視し、その一つとして、毎年夏休みに入るとすぐ夕張岳(1668m)への登山を計画し、年中行事としていた。 高等科1、2年生の内、病弱な者をのぞき、全員が参加することになっ… 続きを読む
思い出の街角 南大夕張駅 昭和62年(1987年) 南大夕張の駅はホームからちょっと小高いところにあった駅でした。私は,大夕張が閉山になる前の南大夕張の記憶しかありませんが,南大夕張に主力が移ってからは市内の高校への通学等この駅舎を起点に通った方も多いと思います。 この写真が撮影された,昭和62年7月に,清水沢~南大夕張… 続きを読む
流れのように 流れのように■鹿島小学校のむかし■|長谷川安造 #1 40年の昔、自然林に包まれ、朝夕、夕張岳に美しく映える麓の地に新しく、木のかおりの高い『主夕張尋常小学校』が誕生。児童の大部分が,南大夕張から転入した。 当時の校庭には、大木の切り株がいくつかあり校舎裏は、深い笹やぶに囲まれていたという。 開校10年後の昭和13年3月、私が赴任したころは教師の… 続きを読む