錦町2丁目と3丁目の間の坂 |曽根幸夫

1890

 

 

 

昭和47年頃錦町 2丁目と3丁目の間の坂道

 

 飯田さんがキャッチボールした坂道は、まさしく思い出帖の錦町写真の中の錦町に出ている2丁目と3丁目の間の坂道です!

 

 時期が若干違えど飯田さんもそこにいらっしゃったんですね。

 

 その坂は突き当りが線路で、その手前に錦町購買会がありました。

 購買会の少し手前左側が2丁目です。

 

 毎日線路伝いに千年町方向に歩いて線路を渡り千年町商店街を通過するのが登校ルートでした。

 

 その坂の上、天理教の前をさらに上へ上ってよく遊びました。

 

 2丁目と3丁目の間の坂道は特に幅が広く、冬は、そり遊びに夢中、皆それぞれ、そりの足部分に鉄の細い板を取り付けるなど改造?してスピードを競い合ったものです。

 

 しかも夜になってもなおです。1人しか乗れないもの、4、5人乗れるものもあったりですが、雪の中に突っ込んだり、ひっくり返ったり大騒ぎでした。

 

 近所の人たちには騒々しかったでしょうね。

 

 当時(昭和36年頃)写真にある状況よりは、雪をもっと退けて道幅が広かったと思います。

 

 さぞかし通る人に、共同浴場(宝町にあった)に行く人などに危なかったろうと思います。

 

 因みに「散歩道(43年地図)」には2丁目2番1号で「曽根」の表記が確認されると思います。

 

 私は昭和38年に大夕張を出ました。

 

 ただ、父の弟家族が錦町3丁目からそこに移り住んだので、「曽根」の表記が変わっていないのだと思われます。

 

 父(営繕課の大工です)の弟は勤労課勤務で宝町詰め所に詰めておりました。

 

 錦町は全体が山を背にして階段状に上へ上へ建てられた社宅です。

 

 特に2丁目2番地は1舎曽根、2舎成田さん、3舎鈴木さんの前までは線路まで家がなく広い空き地なのでそれぞれが畑にしていました。

 

 窓からの景色は見晴らしが良く、線路の向こうに岳富町、真正面に夕張岳が、朝日が窓から拝め?ます。

 

 

 そして機関車が通ると、客車の窓から知人が手を振るのはっきりが見えるのです。

  

 私も清水沢に行くときは、大夕張駅から乗って家の前に近づくと家の母に手をふったのを思い出します。

 

 

(2024年4月20日 記)

 

曽根幸夫 連絡先(sone.yukio@snow.ocn.ne.jp)


 

 

思い出ばなし

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