大夕張つれづれ■チャンバラ■|高橋正朝 #31
前回の書き込みで言及した、溜池の近くには畑がありました。
明石町駅のプラットホームに立って溜池を見れば、その右側一帯です。
私が鹿島東小学校の3年生か4年生のころ、明石町の男の子のほとんどがこの場所に集まり、二手に分かれてチャンバラをやったことがありました。
私の知らない女の子が5~6人来てましたが、チャンバラに参加するのではなく、見物するだけです。
我々は畑の上を駆け回っていたので、恐らく、作物を収穫した晩秋か、冬の始まる直前の時期だったと思います。
我々のグループのリーダーは、柿崎徹さんの兄のマコトさん。もう一方のリーダーは、マコトさんにコジローと呼ばれていた人でした。両人とも中学生でした。
たいていの男の子は、1メートルぐらいの姫竹を持ってきてました。
木刀を持ってきた子も何人かいました。午後の2時間ぐらい、歓声を上げながら戦っていましたが、ルールはハッキリ決めていたわけではないので、結果はどうだったか覚えていません。
相手を叩くときは、胴や手足だけですが、細い竹とはいえ、当たると結構痛かった。
楽しかったなぁ・・・・・・。
今、こんな遊びをしようとすると、親はやめさせるでしょうネ。
もしかすると、学校や先生に苦情を申し立てるかもしれない。それよりも、 子供自身が、こういう遊びはしないかもしれない。
コジローという人は、もしかすると、2003/05/17、23 に住民登録に書き込んでいる長谷部孝治郎さんだったかもしれない。
マコトさんが、コージローと呼んでいたのを、佐々木小次郎のコジローと、先入観で誤って覚えてしまったのでしょう。長谷部孝治郎さんとは、同じ明石町に住んでいたとはいえ、普段は全く交流がありませんでしたので、まぁ、子供にとっては仕方がありません。
そのころは、東映時代劇のピークで、チャンバラ映画はすぐに人気が下り坂になってきた。
ちょうど、大夕張の景気のカーブと軌を一にしています。
高橋 正朝 ( たかはし まさとも ) 2014/03/18 _ 11:01:54
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。