大夕張つれづれ■ 柿 ■|高橋正朝 #40
私が大夕張に住んでいたころは、冬の生鮮果物は、リンゴ、柿、ミカンぐらいだった。
クリに関しては、大夕張で売られているのは私は見たことがなかった。クリは当時の寒い北海道でも生育した場所もあったようであるが、当時としては高価だったろう。
柿は青森が北限だったろうと思う。リンゴは、紅玉と国光しか覚えていない。
ミカンは、紀州よりも静岡産が多かった。真冬になると実が凍り、ストーブの上にのせて温めていた。皮の焼ける匂いが香ばしかった。
ミカンを湯沸しに入れることもあったが、そのときのミカンの味は、ストーブにのせて温めたときよりも味が落ちる気がした。
柿は、山形産のものが多く売られていたようである。時々、ちょっと渋いものにかぶりつくこともあった。
しかし、少々の渋さでその柿を捨てるようなもったいないことはせず、全部食べてしまう。たいていの子供はそうだったと思う。柿の渋みをとるには、焼酎をふきかけるとか、炭酸ガスが密閉された空間に柿を置いて熟成させるとかいうことを、大人から聞いたり、雑誌に書かれたりしていたのを、小学校3年生ぐらいには知っていたように思う。
干し柿は、渋柿の皮をむいて干してつくるものだということも、当時も今も、子供にとっても常識だった。
リビアではサハラ砂漠の真ん中に住んでいたせいもあって、野菜や果物の種類は大変少なかった。冬の果物はオレンジだけである。
地中海に面した都市では、もう少し種類があって柿が売られることもあったらしい。
1か月に1度、経費の精算のために、私か相棒のどちらかが沙漠から海岸の都市に行くのだが、そこに滞在するのは1日か2日間ぐらいなので、わざわざ柿をさがす暇はなかった。
アルジェリアで働いたときは、海岸地帯で、休日に市場に行くこともあったが、そこでは柿が売られていた。
イラクの市場でも、冬には柿が売られており、オレンジなどより高価である。
それよりも高いのがリンゴだ。サウジはモノが豊富で、売られていた柿はカナダ産のものだった。
中近東は北緯だから、気温の高低はともかく、日本ほどはっきりしないものの、一応四季がある。場所によっては柿が生育する気温の自然環境なのだろう。現地産の柿はかなり渋い。全部の柿がそうである。
日本人だったら食べないだろう。口に入れたものは飲み込む私でも、最初に食べたその柿は捨ててしまった。
驚くのは、その渋さに頓着せず、現地の人たちはそのまま食べる。舌の持つ味蕾の種類が違うのか、と思ってしまった。
かなり以前、海外で働き始める以前、谷崎潤一郎のエッセイで、こういうのを読んだことがある。
彼が奈良か和歌山の山峡に行ったとき、そこの農家の人が、こういうところだから何もなくて、と和紙に包んだ柿を出してきた。その柿を形容した名称が書かれていたが、それは忘れてしまった。大変美味だったようである。
それを思い出し、渋柿と知っていてもそれを市場で買い、宿舎に帰ってから新聞紙で包んでみた。和紙ではないにしろ、紙であるから、似たようなものができるのではないだろうか、と思ったのだ。
実験の意味もあって20個ぐらい買っていたので、1週間ごとに1こずつ食べてみた。結論から言うと、3週間目のものが私にとって1番おいしく感じられた。
1か月を過ぎると、柿の中身はかなりジューシーになり、それはそれでおいしいのだが、私とっては、ある程度歯ごたえを感じるもののほうがおいしく感じられた。
池波正太郎は、現代小説では食べ物の挿入はほとんどないが、時代小説では時々出てくる。それが実にうまそうな叙述で、読んでいる自分も食べてみたいと思う。
松本清張や司馬遼太郎の小説やエッセイにも食べ物のことは稀にでてくるが、
食に関して読者にも食べてみたいと思わせる記述はないようだ。
谷崎潤一郎の柿のことは、文章から受けた、私が食べてみたいと思った最初の記述だった。
高橋 正朝 ( たかはし まさとも ) 2015/01/10 _ 11:34:22
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。