大夕張つれづれ■旭橋と明石橋■|高橋正朝 #44

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 明石橋が完成したのは、いつかハッキリとわからない。

 大夕張の年表に「 1956年( 昭和31年 )9月16日、山内線バスが礦業所~明石町を運行 」と書かれているので、明石橋ができて歩行できるようになったのは、その数か月前か・・・・・・。

 明石橋の鉄橋ができるまで、吊り橋だったのを覚えています。

 5歳になるかどうかの頃、明石町番外地の家から千年町の映画館に、時代劇の映画の2本立てを見に、母親に連れて行かれた。

 1本は全くおぼえていない。もう1本は、少々怪奇じみていて、カメに入った大量の蛇の場面と、洞窟で、魔人が、手から蜘蛛の糸を出して主人公と戦う場面はハッキリとおぼえている。

 私は見るのが怖いから、顔に両手をあてて下を向き、でも、チラッチラッと見ていて、それらの部分だけが記憶に残ってしまった。

 帰るとき、千年町駅のすぐそばの映画の立て看板で、その映画は、第1部と第2部があり、日中が第1部の上映で、夜に第2部の上映という宣伝だったらしい。

 私は字が読めなかったが、母親がその看板を見ながら、「見たいね・・・・・・」と言いながら、数分間残念そうに眺めていた。

 そのときは、人通りがほとんどなく静寂だったので、夜の7時か8時ぐらいだったろうと思う。

 母親は妹を背負っていた。陽は落ちていたが、残光があったので、6月ぐらいの時期だったろうと思う。子供心に、時刻の割に明るく感じ、不思議に感じていた。

 時計のことはわからなかったが、眠たいから、その時刻の感覚がわかるのだ。昼は賑やかな千年町だが、そのときは静かだったのが、今でも印象深く思い出される。

 父親はその場にいなかったので、多分札幌に出張していたのかもしれない。

 5歳ぐらいの子供にとっては、友達と道草をしながら歩くならともかく、 
目的に向かって短時間に歩くというのはつらいものがある。しかも眠たい。

 そんな体調で揺れる吊り橋の明石橋を渡るのは怖かった。

 大夕張の幼稚園への往復は、汽車で通っていた。

 入園式の日か、それとも5月ごろだったか、何か特別な日で、園児の父親が3、4人付き添って、旭橋を渡ったことがある。そのときは、吊り橋の明石橋は道路工事の関係で、すでに渡れなくなっていたのだろう。

 汽車に乗れなかった理由はおぼえていない。

 1列になって旭橋を歩いて渡るのだが、先頭とシンガリは大人で、間に1、2人の大人がいた。

 線路の間にかかっている板は狭く、付き添いの大人は注意深く見守って声をかけてくれていて、10人ぐらいの園児は、皆おそるおそるゆっくりと歩いた。

 1人の園児が、板の穴に片足を突っ込み、そこで皆、声を上げた。

 靴が脱げそうになったのが見えた。

 誰もケガはせずに旭橋を渡り切ったのだが、その園児が靴を落としてしまったかどうかは記憶にない。


 高橋 正朝 ( たかはし まさとも )2015/04/26 _ 12:05:37

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住


大夕張つれづれ

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