炭住脇のスキー
昭和37年頃、冬。竹ストックとカンダハー(カンダハン)のスキー。
窓の外のスキー場 【飯田雅人】
弟が2歳くらい、自分6歳の頃の写真です。
トタン屋根から落ちた雪はそのまま積もり、この年齢の子どもが遊ぶには、かっこうの傾斜が付きました。
父のスキーが立っていますが、当時のスキーは、長くて重かった。自分が履いていたスキー靴も、重くて、その上ひもを何回も金具を通して縛る作業がひと苦労でした。
ようやく履けた靴も、遊んでいるうちに紐が雪が付いてボンボリのようになり、ゆるんだら最後、縛り直すのが大変で、おまけに毛糸で編んだ脚絆(「けはん」とよんでいました)も同じ状態で、「ぶっきちょ」な自分にとっては、大きなストレスでした。
背景の小屋にかかった縄。ちょっとしたものを縛るのに、よく使われていました。
窓の上の方にかけられた物干し竿。少し後には、水色のテープをかぶせてお湯をかける『物干竿カバー』もありました。(今でも売っているみたいです)
それにしても昭和37年頃、カラーフィルムは、まだまだ高価なものだっただろうに、カメラに凝っていた父のお陰だと、感謝です笑。
(2020年10月5日 記)
懐かしきスキーの思い出 【Masami Kawauchi】
お父さんのスキー、懐かしいです スキーが平で無く 盛り上がっていましたね。私は幼稚園の頃、長靴で履くスキーで後ろに止める金具が、付いていました。
そのあと、カンダハン、そして、ラクリーメン。1mぐらいの革紐でスキーとスキー靴を固定しました。
このラクリーメンで、足を骨折した人多かったですよ。
転んでも、スキーが外れませんでした。私が小学校5年生頃から、三角シェフテイって、転んだら、足が外れる金具が出てきました。
当時5000円ぐらいして、今の価値で40000〜50000円ぐらいだと思います。私はラクリーメンでした。
昭和40年頃、小学校5年生の時、スキーを買ってもらえませんでした。
すると、当時の担任の湯浅先生が、家まで来てくれて、親を説得してくれました。単板で、エッジは付いてませんでした。クラスで競技スキーをしていて、どうしても、スキーが流され、後からエッジを付けることにしました。
湯浅先生が、清水沢に有ったスポーツ店、十字屋さんを、授業中、教室に呼んで エッジを付けてくれました。見ていたら、特殊なカンナで、エッジの部分を削って、木ネジで止めてました。
木ネジなのでジャンプしたら、ダメと言われました。付け終わって、回転競技の練習、何人も滑った後の氷の壁に、食い付きが良くて、嬉しくなったの思い出します。
(2020年10月5日 記)
さすが 富士見町・・・