八百五十スキー宿泊 |Kawauchi Masami

11977
大夕張から、八百五十山頂。赤い線は、神社裏からの尾根伝いのルート。
冬に八百五十のゲレンデに行くには、鹿島小学校裏から、宝の沢に沿ってのルートがあった。

八百五十のゲレンデは、山頂直下の急斜面の下の緩やかな傾斜地だった。
その傾斜地の途中にヒュッテがあった。

(目 次)

  準 備

  出 発

  山小屋でのラーメンづくり

  朝ご飯はカレーライス

  朝ラジオから流れるトランペット

  湯浅先生作詞作曲 『八百五十のうた』

  一緒に行った仲間


 鹿島小学校の時、八百五十にクラスで泊まりに行った時のお話です。

 

【準 備】

 2〜3日前にクラスで、湯浅先生が、行く人を募集します。

 そして、給食室へいって、人数分の食器と、家庭科室で鍋を借ります。なぜ、給食室の食器が良いかと言うと、大勢の分を重ねる事ができ、割れないし軽いからです。シチューとか入れていた、丸いやつです。

【出 発】

 当日になると、鹿島小学校から、スキーをはき、神社まで登って、水源地の裏の沢を、登り始めます。

 第一の壁が近くなると、沢も近くなり、喉が渇いた人は、ストックを雪に刺し、ストックのワッパのところに、いっぱい、雪を付けます。そして、沢の水の所まで、手を伸ばして雪に水を、しみ込ませ、それを、チュウチュウ吸うのでした。

 汗をいっぱいかくので、山に登る前に、背中と前に、手拭いを、下着の下に広げておきます。そして、山小屋に着いたら、両方の手拭いを抜くのです。

 第一の壁を登り始めます。斜めに、20〜30m登って、キックターンして、また斜めに登ります。それを何度か繰り返し、第一の壁を登りきります。

 そこを進んだ先に、第二の壁があります。同じように、キックターンしながら、ジグザグに登ります。

 第一の壁、第二の壁を登っている時、崩れた雪が転がり、やがて大きな細長い雪だるまになり、耐えきれず倒れてしまいます。

 登りきって少し歩くと、目線より下に、山小屋が見えます。

 あとは、山小屋まで、スキーで滑って、到着です。

 時間は、はっきり、覚えていませんが、多分2時間位だと思います。

八百五十の斜面にあったヒュッテ

 【山小屋でのラーメンづくり】

 山小屋へ着くと、最初のご飯は、即席ラーメンでした。

 メーカーは、それぞれ家から持って来るので、さまざまでした。今覚えているのが、「あけぼのラーメン」「よっちんラーメン」「ハイトップラーメン」などです。中でも当時一番人気は、「ちびっ子ラーメン」と言われたものです。

 ストーブは、ドラム缶より少し大きく、上は煮炊きが出来るように、平らになっていました。薪は、山小屋の外に、いっぱい山積みにして有りました。

 誰が用意したのかは、わかりませんが、多分、三菱の会社かと思います。

 山小屋に着いたらすぐに、薪ストーブに火を入れます。

 ラーメン作る時の水が、大変で、暖かくなると、持って来た、大きめの鍋に雪を、いっぱい入れて、水を作りますが、鍋いっぱいの雪が溶けても、水は、わずかしか作れません。

 何度も、何度も雪を入れて、みんなのラーメン分の水を作りました。

 山小屋の前、30〜50mぐらいの所に、湧水は有ったのですが、水を汲むバケツが有りませんでした。

ヒュッテの前で 私は、前列中央 
真ん中の黄色い帽子をかぶっている人、今誓夫と行って中学スキー代表選手でした。
左側の手拭い巻いてる子、大夕張労働組合長の大浦貞助さんの1人息子さんです。

ヒュッテの2階、インスタントラーメンをつくって 給食室のカップで 食べました。私は、一番前。

 

 

 

 そして、夜が来ます。確か、ランプが、2つありました。ランプの油の事は、覚えていないので、多分、先生が用意してくれたと思います。

 私達は、懐中電灯、単二電池が2本入る物でした。替わる替る点けても、何時か忘れましたが、電池が無くなりました。

  無くなった電池は、ストーブで温めると、少し使えるようになります。

 下の写真、たぶん、カメラに向けている懐中電池、オレンジ色です。もうすぐ電池が無くなります。カメラに向けているのは、カメラのピントを合わせるためです。

   

深夜12時頃です。みんなの目が、「眠たいけど、起きていたい」と言うのがわかりますね。

2階から撮影した写真。懐中電灯や、おタマを手に目がランランと輝いています。
夜になっても 目がさえて眠れず

 写真では、あたかも明るく見えますが、ほとんど真っ暗です。写真はフラッシュをたいているので、その時だけ、ピカって光るだけです。

 山小屋ではロウソクは使いませんでした。多分、火の用心のためだと思います。

 外は、雪の降ってない日は、月あかりでも、結構明るかったですよ 一面、白ですから。

 夜、湧き水のところへ行くと、大夕張の帯向酒屋のネオンが見えました。今から思うと、遅い時間は店やってないから、19時ごろだったと思います。

【朝ご飯はカレーライス】

 朝ご飯は、いつも、カレーでした。

 1人、茶碗一杯の米を持って行き、全部合わせて炊きました。

 おかげで、あの時から水加減が出来るようになりました。手をパーと開いて、米に当て、手の関節の辺りまで、水を入れました。

 炊く時も、昔から言っていた『始め、ぼうぼう、中、ぱっぱ。赤ん坊泣いても、蓋取るな』でした。

  食べた後の 食器洗いが 大変でした。

 冷たかった記憶しかありませんでしたが、例の湧き水で洗いました。水に手を入れて洗えたのですから、我慢は、できたんだと思います。

 お腹もいっぱいになって 、いよいよ、スキー遊びです。

 

八百五十に連れていってくれた湯浅先生と一緒に、ヒュッテの前で記念の撮影

 山小屋には、救助用の、ボートが有りまして、これが、実に滑りました。

 山小屋の後ろの方に、富士見町のスキー場ぐらいの遊ぶ所が有りました。

  湯浅先生は、いつでも希望者を、男の子・女の子に関わらず、全員、連れて行ってくれました。どこで燃やしたのか 松の木が、生木でも燃えるのを、この時知りました。

 

 

【朝 ラジオから流れる「夜空のトランペット」】

  

 当時、歌は、坂本九の「ジェンカ」が流行っていました。そして、朝方ラジオから流れる、ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」。

 朝になると、ラジオが、よく流れていました。何故ラジオつけていたのか、想像ですが、気象状況のニュースを聴く為だったかも、または、その時間に目覚まし時計かけていたのかもしれません。

 当然私も疲れて眠りについていると思うし、もしかしたら、目覚まし時計で起きていたのかも知れません。 先生は、大勢の生徒を連れて行ったのだから、特に山ですし、気象状況には気を使った事でしようね。

 山小屋で朝聴く、「夜空のトランペット」は、良かったです。

 シーンとしている、何も聞こえない雪に埋もれた古い山小屋の、深々と、降りそそぐ雪の中で、朝方、外がうす青く夜明けを迎えた頃、小さなラジオから流れる綺麗なトランペットの音色を聞くのが好きでした。

 何故か山小屋に泊まりに行った時、何回か聴きました。

 山小屋の孤独感と、みんな疲れてきって眠りについて、聞こえるのは、薪ストーブの燃える音と、ラジオの音だけって感じです。

 山小屋の周りは、ウサギの足跡でいっぱいでした。

 何度か登っているうちに、家でウサギの罠を作りました。作り方は針金を2mぐらいに切って、片方を小さい輪をねじって作り、その輪に、もう片方の針金を入れて、ウサギの頭が入る様に大きい輪を作ります。

 ウサギが一度かかると、締まってバックしても 抜けなくなります。

 でも、1度もかかった事は有りませんでした。今、思うとかからなくて、よかったと思います。

【湯浅先生 作詞作曲 『八百五十のうた』】

(一番)

山が 呼んでいる 僕たちを

 銀節の嶺 遥かなる ヤホー ヤホー

真白な 粉雪に 踊る スキー の シュプール 

 鮮やか 行こう 山へ 

僕ら〜を 待っている

(二番)

山が 呼んでいる 僕たちを 

 銀雪の嶺 遥かなる ヤホー ヤホー

ランプの火 ほの暗く 語る 友達 の(     )

 (     )行こう  山へ

 僕ら〜を 待っている

※(  )が忘れてしまって出て来ません。

【一緒に行った仲間】

 

 昭和40年私が、小学校5年生で、花田さんは小学校6年生です。真ん中へんで、シマのセーター着て、給食のカップを口に当ててる人。同じシーンですね。

 この方、花田さんと同級生の春日町にいた馬渕さんです。花田さん、代々木町にいたような気がします。

 花田さんの写真には 私の片目しか写っていません。

 花田さんの前にいるのが 花田さんと同級生の春日町にいた都さんです。

 場所は、山小屋に入って、左側の窓のある二階です。二階まで、はしごで上がりました。

 カップ持っている写真は、インスタントラーメンを食べているところ。 このカップですよ。給食室から借りたやつ。

 八百五十山小屋での食事の写真、花田勝則さんの投稿のものと同じ写真です。下のページに花田さんの写真がのっています。

(2020年10月5日 記)


(筆者紹介)

昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務



↓下のページから、本間正雄さんが撮影した八百五十のヒュッテの写真を見ることが出来ます。

 

 

 


 


↓八百五十への登山

思い出の記

3件のコメント

  • 大夕張の住民の方は、八百五十山に登った方は多いと聞きます。
    私は15年程前、内川さんに声をかけていただいて初めて登りました。
    山小屋はすでにありませんでした。火事で焼けたとも聞きました。
    なだらかで広い斜面は、眺めもよく素晴らしい景色とともに心に残りました。
    ↓八百五十のゲレンデ跡付近(西方向を見る)

    • ↓東方向を見る(山小屋があった方向)

      • ↓ゲレンデのあたりから、夕張岳

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