夕張そして札幌へ|Kawauchi Masami
昭和29年6月2日、 父 河内正雄 、母 君江 の三男です。 氏名 河内正三(まさみ)、 南清水沢で、産ぶ声をあげます。
父は、大夕張鉱業所に働いていましたが、住宅が当たらない為、寮に入っていたと聞きました。
私が2歳の時、緑町に住宅が当たり、そこから18歳までの大夕張生活でした。
18歳当時、私は定時制高校に通いながら、三菱鉱業所坑外作業員でした。昭和47年8月、明石町と千年町の間で 車の正面衝突事故を起こしてしまい、学校は退学、会社も首になり、残ったのは、多額の借金でした。
私は夕張の職業安定所で仕事を探しました。
夕張市で炭鉱に代わる企業誘致を紅葉山にしていて、私は子供服のメーカーに就職しました。
大夕張から大阪です。仕事を覚えたら、夕張に3年で帰るのを条件で行きました。ところが、昭和48年、オイルショックで、会社は倒産してしまいました。(今紅葉山に残ってる会社 北の誉 まだ有るかなぁ?)
私は、昭和50年、親が南大夕張にいたので、南部に帰って来ました。翌年の1月に、南大夕張鉱業所ヘ就職する事が出来ました。初め坑内で、最後は選炭機でした
平成2年(1990年)3月の閉山まで勤めました。
生活のため、同じ年の6月1日から札幌の鋳物工場ヘ就職しました。 私は子供3人いたので、 3Kを選んで働きました。
3K・・・ キツイ、キタナイ、キケンの、少しでも賃金の高い、鋳物工場で働きました。すると、そこで動いてる機械、ほとんど炭鉱の時の、ミニチュアみたいな機械。壊れても直せる人がいなく、すぐ業者を呼んでいました。私にとっては、オモチャみたいな機械で、私が直してあげました。
炭鉱では、巾1mぐらいあるベルトコンベアーも、札幌では巾40cmぐらいの小さい物でした。
50歳の時、難病の(骨髄小脳変性症)が、発覚。55歳の時、北大病院で『仕事は無理です』と言われたのですが、58歳迄なんとか働きました。
58歳でいよいよ仕事が出来なくなり、会社を辞めました。 でも病気の為、2年間、私病手当が、社会保険からもらえた為、60歳の年金迄、繋げる事が出来ました。
仕事が無くなり、上手く歩けなくなった事で途方に暮れてる時、カートを知りました。
コスチュームで乗ると、子供達が喜んでくれる。そんな姿を見て、「俺にも、まだできる事が有る」と、思うようになり、妻も一緒に走ってくれていました。
フェイスブック始めたきっかけは、ツイッターでした。
2013年、カート乗り始めの頃、私が家に帰ると、 子供たちが、私の走って来た場所を知ってるのです。
「どうして、わかるの?」と聞くと、「いろんな人が、ツイッターに写真をあげてる」との事。
そんなのが、世の中にあるのを知りませんでした。
早速、タブレットを買って、見てみました。たくさん、写真が貼られていました 。カートのおかげで、こんな 世界があるのを知りました。
私の持っている写真、殆どツイッターで拾った物です
私のツイッターのアカウントは、『クッパ札幌』と言います。
仲間で走る時は、『クッパ』に変身します。
YouTubeで、『北海道マリオ』を検索すると、『旧車天国』ヘ妻と行った時の動画が、アップされています。
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。