坑外作業の仕事 | Kawauchi Masami
大夕張の坑外の仕事、機械の事、書いてみますか。
まず各工場には、坑内から上がってきた機械を、工場に入れる様に、線路が引いて有りました。
機械工場は、坑外機械の1番端で、旋盤4台、セーパー2台、ミーリング1台。
セーパーというのは、鋼材を平に削る機械で、スペルといわれる機材などを作っていました。
ミーリングは、旋盤などで出来た新品シャフトに、キー溝を掘る機械でした。
『キー』とは シャフトとプーリの所に付ける 周り止め の 金具 です。
キー溝を掘るのは、ミーリングという機械を使って、丸のこの様な厚さ5~6mmぐらいの刃で、削っていきます。
キー溝は、私、得意でした。
私はここで、仕上げの仕事をしていました。(修理や組み立てですね)
機械工場の隣に、倉庫が有り 次の工場が ドラムカッター工場でした。
その隣にお風呂が有りました。お風呂は、坑内の人とは別に、坑外用のが有りましたね。
お風呂は、15人程入れたでしょうか?
坑外の風呂は、私達少年工の仕事でした。
と言っても、水を入れ、あとはボイラーのバルブを開けると、自然に沸きます。
ところが、沸きすぎると、大変な目にあいます。煮えくりかえっている時も有りました。
風呂の前を過ぎて、真っ直ぐ行くと、製燗場(鍛冶屋)が有りました。
鍛冶屋には、ハムロと言う、でかい機械が有りました。
ハムロは、20〜30cmの鉄の柱が、上下運動していて、そこに先山が、真っ赤に焼けた鉄を入れ、箸で方向を変えて、形を作っていきます。
初めて見た時、見とれてしまいました。
(ここでの先山は、熟練者を指します。また、ここでの箸は、焼けた鋼材を掴む道具の事です)
鍛冶屋には、電気溶接機も有りましたね。
今は、鍛冶屋の機械、エアーハンマーと言うそうです。
もちろん、中ハンマーを2人組で打つこともありました。
比較的、小さな物で、先山が箸で、鉄をひっくり返すと、同じタイミングで中ハンマーを打ちます。
この時、先山が小さいハンマーで、テンポを刻みます。
そのテンポが、中ハンマーを打つのに『ピタリ』なんです。
打ち方も、先山の頭の動きで、強く打ったり、弱く打ったり、色々有りました。
昔は、『鍛冶屋』氏、『溶接』氏、『仕上げ』氏、『旋盤』氏 などなど、様々な職人技を持っている人がいましたが、 今は、ほとんど コンピュータに代わり、削る角度も、深さも、パソコンで決めています。
技を持つ人がいなくなります。 例えば、包丁の様な刃物を、素人が焼き入れすると、どちらかに曲がってしまいます。
回り止めのキーを作る時も、100分の1mm 単位でした。
それが、やっているうち、手で触ると、わかる様になります。
職人がいなくなるのは、淋しいですね。
昼ご飯は、いつもボイラーを、目の前に見ながらでした。
お風呂と、坑外電気の工場の間は、道路で、奥に貯炭場が有り大型ダンプが、露天掘りの石炭を運んでいました。
坑外電気工場の奥の建物は倉庫で、修理用の部品を貰ったり、ウエスなども 貰いに行きました。
(ウエスというのは、機械の汚い 油などを 拭く ぼろ の事です。)
機械工場の隣、私の時代は、使われていませんでしたが、鋳物工場だったと、聞いたこと有りました。
私の時代は、機材置き場、倉庫として使っていました。
次の写真は、機械工場の前です。少年工時代の私がいます。
機械工場の後ろに鍛冶屋の煙突が見えますね。
少年工は、18歳になったら坑内に入らなくてはダメでした。
しかし、私の先山が、私がいなくなると困ると言って、会社に、話に行って、特別、例外を認めてくれました。
工場近くの線路は、屋根は無く、冬は雪で使えませんでした。
冬は、トラックで品物を入れていました。
昭和53年、閉山してから5年経つと、だいぶん変わってます。
この頃はまだ、三菱大夕張礦業所の建物群もいくつかまだ残っていました。
進発所、機械工場、製燗場の大きい建物は残っていますが、その奥がありません。貯炭場の跡地は見えるようです。
三菱大夕張礦業所の全景写真は、こちらからご覧下さい。
いまは、なんでもある時代ですが、 味の素の本だしを多めに入れて 、具はもやしだけで、味噌汁を作って、食べると、忘れていた鹿島中学校の給食の味が、よみがえりますよ。(余談でした)
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ。三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。