『夕張炭鉱労働組合 創立30周年記念 労働運動史』の中の大夕張閉山

19687

ゆれた大夕張閉山阻止の闘い

 炭労は70回の臨時大会で、「長期操業計画明示要求」の闘争方針を決め、(昭和)48年の年明けから具体的な戦術をもって闘いが進められた。

 各支部ごとで積み上げられた闘いは、4月段階に入って本格化、各社の長計が明示されるにいたった。

 しかし、大夕張炭鉱だけは、暫時猶予をねがうと、計画明示を引き延ばしていた。

 その後、4月19日に会社は、臨時経営協議会に行うと申し入れて、その席上で閉山提案を行ったのであった。

原料炭お前もか

「原料炭ヤマだけは生き残れる」という意識が、夕張のマチに強く流れていただけに、この閉山提案は、イメージを完全にぶちこわした。

 このショックは大きく、夕張のヤマ全体に影響をおよぼして大型なだれ閉山を呼ぶキッカケになるのではないかと暗いカゲを投げかけた。

 夕張山脈の山ふところ深くいだかれた大夕張地区は、3246世帯の11920人の人口がある。

 この内、二百数十世帯だけが、商店関係者で、この人々もまた、町ぐるみで炭鉱と生死を共にしてきたのである。

 炭住はもちろん、一般住宅、商店、さらに学校校地も炭鉱が地主、大夕張地区の住民はすべて生活の手段を炭鉱につないでいるのが現状である。

 一方、夕張市自治体にとっても大問題であった。

「約1万2千人の人口からいったらもう一つのマチがなくなると同じで、地域社会への影響が非常に大きい」

と頭を抱え込む状態であった。

 第5次の石炭政策がスタートした矢先の閉山提案は、出炭条件の悪い炭鉱は閉山に向かうだろうと噂されていただけに、まさに、スクラップ・アンド・スクラップに追い込まれたのである。

 さらに、通産省は、閉山提案に歩調を合わせたように「閉山はやむをえない」と見解を発表したことが重なり、大夕張の地域住民には、この閉山は以前から準備されていたものだと、一層の失望を与える結果をまねいた。

 続々と大夕張に集結

 しかし、炭労はもちろん、地域市民共闘、全道産炭地共闘と、闘いの輪を広げて、閉山反対の闘いに立ち上がった。

 産炭地防衛夕張市民会議は、4月24日に大夕張対策本部を設置して、マチぐるみの闘いを組織した。

 さらに、夕張市でも臨時市議会をひらいて、大夕張閉山反対を決議した。

 また、道炭労でも27日には石炭政策変更、閉山阻止の全道集会を開催して、閉山反対運動展開の呼びかけを行なった。

 

 5月段階に入って闘いは激烈を極めた。炭労は一層の闘争強化を行ない、5月14日に通産省調査団の入山をきっかけに抗議座り込みを行った。

 この抗議座り込みには、市川総評議長もともに加わり、夕張地区労は「大夕張鉱再建要求貫徹大集会」を行ない、マチぐるみの闘いに盛り上げ、15日は大夕張鉱で24時間の抗議ストに突入した。

商店街もゼネストに参加

 こうした情勢の中で、会社は、閉山撤回をゆずらず、閉山阻止交渉は進展せず、困難を極めた。

 炭労は、28日に、産炭地ゼネストを打って闘うことを決意し、全道労協でも、7つの地域で、危機突破の訴えを行なうことに決め、闘いを強化していった。

 こうして28日には、夕張市内の全山が24時間ストに突入し、「大夕張閉山反対市民集会」を結集した。

 この日は、夕張全市内の商店はシャッターを下ろして、ゼネストに参加し、地区労傘下の各単組はそれぞれの体制で抗議ストを行ない、市民集会に参加した。

 そして「ヤマとマチの灯を消さないために、閉山をくい止めようと、ぼんやりした電灯のともる炭住街に、シュプレヒコールを繰り返した。

 また、北教祖も全道的に時限ストで参加し、夕張市内では、校長、教頭もデモに参加するという異例の行動を展開した。

 また、この日は、赤平、芦別、上砂川、歌志内、三笠、釧路の各地域でも、支援の集会で閉山阻止のアピールを行ったのであった。

 しかし、こうしたマチぐるみの闘いの発展するなかで6月段階を迎えたが、6月13日に通産省調査団は地域住民の闘いを裏切って、無常にも「閉山やむなし」との態度を明らかにしたのであった。

 

閉山やむなしにうろつくハイエナ

 こうした非常事態をむかえた炭労は、ついに闘いの方針を対置要求の闘いに転換せざるを得ないと結論を出した。

 6月19日、大夕張炭鉱労組は、臨時大会を開催して、闘争方針の転換を決めたのであった。

 調査団の結果報告で、最後の望みも無残に消えた大夕張のヤマは暗かった。

 「炭住内における不正求人活動を禁止します」

とかかれた立て看板を横目に、閉山にうち沈む炭住内を、本州企業の人買いが暗躍した。

 まさに、ハゲタカ、ハイエナのごとき企業のむき出しの姿がそこにあった。

 それは、石炭資本の無責任きわまる変身、カメレオンのような姿と対照的なあさましい姿であった。

 その後、対置要求の交渉が重ねられ、28日に妥結をみたが、この夜、やりきれぬ不満と焦燥感にかられた礦員たちは騒ぎだし、組合事務所に投石するような事態に陥った。

 この騒ぎは静まらず、翌日までおよんだ。

 30日にようやく緊急全山大会がひらかれ、7月1日の全山投票で、最後の決断が下されることになった。

 そして、1日の全山投票の結果、1427対 389で、閉山承認の決着がつけられたのであった。

 その後、8月21日に、大夕張炭鉱の坑口が閉鎖され、46年の長い歴史に終止符が打たれた。

 この大夕張炭鉱閉山のカゲで、奈井江の滝口炭鉱もひっそりと、坑口を閉ざし、ヤマの人々は、ヤマから追い出されていったのであった。

 

【悲しい閉山】

 いま、クラスの人数は

 十人しかいない

 わたしたちは、十人きょうだい

 などといって わらう

 そういわないと 悲しいからだ

 授業始まりのチャイムが鳴ると

 先生はクラスの人数を数える

 まだみんな来ていないような

 気がするんだろう

 教室のすみずみまで使っていた

 一学期がなつかしい

 いまではガランとした教室

 

(1975年12月発行)

 


 

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