知られざる泉町|久々湊眞一
皆さんは、泉町を憶えていますか。錦町と緑ヶ丘の間、宝の沢に沿って住宅がありました。
泉町は大夕張で一番新しく出来た町であり、最も小さな地域でした。このためか互助精神に満ちており、住人の纏まりが非常に良かったのです。
泉町は、種々の独自な町内会行事を行っていました。
町内運動会は、地域の一番奥に位置する広場(南さんの前)で行われました。
パン食い競争や借り物競争、各種パズル競技などオリジナリティに富んだ楽しいものでした。
年末恒例の福引大会は子供達のお待ちかね行事でした。
町内会長さんが綱の束を持ち、子供は低い年齢順に自分の好きな一本を選んで引っ張ります。綱の先には○○賞と書いた札がついており、該当の景品が貰えます。ワクワクしながら引っ張ったものです。
当時、泉町の娯楽で流行っていたものは、百人一首でした。大人と子供が入り混じった真剣勝負でした。
子供会による町内対抗「百人一首」大会もありました。鍛えられている泉町は、常に上位に勝ち残りました。この時の応援団(父兄)の熱狂的な声援が思い出されます。
炭山祭では、泉町も御神輿を出しました。
私は同級生の西川喬君と一緒に、賽銭箱を担ぐ係です。お賽銭が雨あられと降る、中には袋に入った紙幣もあって随分驚きました。
いったい何円の紙幣が入っているのだろうと、袋を太陽光に透かしている所を大人に見つかり、ポカリと頭を殴られたりもしました(悪ガキだったなぁ)。
鹿島中学の運動会は、町内対抗競技が多々ありました。
今では珍しい町内対抗仮装行列も行われていました。泉町は突飛な仮装で人気を博しましたが、やっている当人は大変恥ずかしかった思いがあります。
泉町は子供の数が少ないので常にフル出場していました。
それでも、リレーは全年齢を揃えることが出来なくて、下の年のものが1つ上の年齢に出る等で、かろうじての参加です。
途中までは先頭の方を走っていますが、穴の年齢のところで次々と抜かれるパターンが多く、大変悔しかった思い出があります。
日本全体が貧しかった当時。しかし子供達は多くの催し物に取り囲まれ、楽しい日々を送っていました。あの頃の親は子供を思う愛情に溢れており「色々な意味で偉かったなぁ」と思い出されます。
( 2001年6月15日 記 )
久々湊 真一
S34年東小卒/S37年鹿島中卒/S40年東高卒(2期)本州で就学・就職 。父は大夕張に一軒しか無かった印刷業を 営んでいました(みなと印刷)。私にとっての大夕張は「頑張る力」の源泉です。
「ふるさと大夕張(1丁目1番地)」住民登録より