斎藤商店付近

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 昭和47年頃だろうか、特徴的なハンドルの自転車に乗っている子どもたち。

 千年町、斎藤商店付近。

 この先のゆるやかな坂道を降りていくと、鹿島東小学校があった。

 赤い郵便ポストが店頭に置かれ、日糧パンの看板がかかる、斉藤商店。

 小学生の頃、千年町の教員住宅に住んでいた従兄弟の家では、米から作る『バクダン』というポン菓子を大きな袋にまとめて作ってもらっていた。

 おそらくこの斉藤商店だったのではないかと思う。自分の家では食べることはなく、羨ましい思いをした。

 

 寿司の看板がかかる右手前の商店は、昭和43年の住宅地図では、『天富士商店』の名前で出ている。

白黒写真に着色した画像

 

「斎藤さん」は「斎藤商店」 【高橋歌子】(2001年05月21日(月)19時23分09秒)

 千年町にあった「斎藤商店」。

 家のものはみんな「斎藤さん」と呼んでいました。

「斎藤さん」命だった私は、今でも中の様子が思い浮かべます。

 

 まず、「斎藤さん」には入り口が二つありました。

 

 左の入り口から入ると、左手にはあらゆる食品がずらーっと並んでいました。

 

 憧れの品は「ボンカレー」と「玉屋のシュウマイ揚げ」。

 

 当時、インスタント食品と言えばラーメンくらいしか食べなかった我が家では、めったに買ってもらえませんでした。

 

 右の入り口から入ると、右手には文房具や日用雑貨が並んでいました。

 

 正面には量り売りのお菓子を入れるケースがありました。

 

 当時は町内でまとめてお菓子を買うことが多く(昼下がり主婦たちが何を買うか相談していた)遠足のときくらいしか買ってもらえませんでした。

 

 中央にパンを入れるガラスケースがあって、店主は大体その辺にいて、会計する場所でもありました。

 

 食パンは時々買っていましたが、菓子パンもめったに買ってもらえず、眺めるだけでした。

 左をつなぐ通路には、奥に牛乳の冷蔵庫、手前にはアイスのケースがありました。

 10円の「おっぱいアイス」とか、細長くて平べったいビニールに入った赤い氷は良く食べました。

 メロンの形をしたアイスや、雪印のラクトアイス・20円とかはやはりめったに買ってもらえず、横目で見ながらいつものにしていました。

 

 小さい頃「いなくなったと思ったら斎藤さんの前にいた」そうで、いまだに笑いの種になっています。

 あの頃今くらいお金があったら、今考えるとしょうもないものが、げっぷが出るほど買えたろうになー。

なんか悔しい。

 

【平成9年の大夕張】
閉村直前の大夕張。千年町の浴場に降りていく階段が残っていた。この階段を通り,

この4軒連なったブロックの住宅の前を通って,奥の教員住宅へと通っていた。当時は家々の前の花壇に花が咲き誇り,その間の坂道や土手をここに住むいとこたちと駆けていた。

大夕張 千年町
千年町教員住宅があったあたりの建物

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