親父のものがたり |Kawauchi Masami
よくわかりませんが、親父は、いいとこの坊ちゃん、らしいのです。
家は軍馬を育てる大地主で、お祖父様は、沼崎部隊々長でした。大きい家で使用人も沢山居たらしく、お祖父様の名前は、沼崎一男といいます。
結婚していた沼崎一男は、西田さんという 妾を作ります。
なんの縁か、母親は若い時に一人で行ってます。私も中学1年生の時に、行きました。 鵡川の旭岡という所で 、長い橋が有ったことを覚えています。
とても格式の高いうちで、私は泊まらず、その日に帰ってきました。
下の写真は、戦争中、 昭和19年(1944年) で 私の父と母の結婚式の写真です。
当時、太平洋戦争末期、時代が時代なので、出征が決まってからの、結婚でなかったかと思います。
親父は、結婚して直ぐに戦争に行きました。しかし、戦争へ行って終戦。ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留されました。4年~5年帰ってくることができなかったようです。
私の兄にあたる長男が、結婚の次の年、昭和20年1月1日に生れました。
親父が、長男に会えたのは、シベリア抑留から帰ってきてからのことです。
親父は、当時、子供のいなかった河内家へ、養子だったそうです。
抑留からもどり、下夕張(旭ヶ丘)開拓地で、養父のもとで一生懸命働きました。
しかし、養父に実の子供が産まれてから、折り合いが悪くなり、母親の話をたどると、幾ら働いても お金がもらえず、働きづめで、その上、親父とお袋が、逃げ無い様に長男を、山の別荘に隠したそうです。
見るにみかねた使用人が、長男を、お祭りに連れて行き、養父に隠れて、親父とお袋は、子供と共に南清水沢に、逃げたと聞いています。昭和25年頃のことでした。
養父は、酒癖が悪く、酒で財産を失ったと聞いてます。
養父のその後はわかりません。
酒は魔物と、両親に教えられた私達3兄弟は、今でもお酒を飲めません。
抑留から帰ってきてから、二男が、昭和29年には、三男、つまり私が誕生しました。
下の写真は、母親の姉と、次男と私です。
6月2日生まれの私の首が据わっている様なので、昭和29年の12月頃、南清水沢の、母の実家だと思います。
この二年後、三菱大夕張礦業所に働いていた父は、寮に入っていましたが、緑町に住宅があたり、家族で大夕張に引越しました。
私が子どもの頃は、子ども心に、父に昔のことを聞いてはいけない、と思っていましたし、親も昔のことは、話してくれませんでした。そんな時代でした。
ここ100年あまり、北海道の食べる物に苦労した話を聞いたり、見るにつけて、 今の不自由のない世界が、このまま続くとは思えません。
今でも食べ物を、食べられない人間が、大勢います。 何もなかったら、いいですね。 パソコンは、いじれても、食べ物を自分で手に入れられる人って、少ないですよね。
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。