私の大夕張 |菅井宏史

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昭和33年の富士見町6丁目付近の地図に、赤い線で位置を示したもの。写真は、1997年6月撮影。木と、道の跡が残る。

 

 思わず懐かしさがこみ上げ、『ふるさと大夕張』を見ている内に、色々と当時の思い出が蘇ってきました。

 

 私は、昭和33年に大夕張の常盤町で生まれ、4歳か5歳の時に(昭和37年か38年だと思います)富士見町に引っ越しました。

 
 小学校4年の途中、昭和43年に父親の仕事の関係で(父は郵便局に勤めておりました)、ふるさとを離れるまでの、正味、富士見町での5、6年が私の大夕張の記憶の全てです(常盤町の記憶はほんの数えるほどしかありません)。

 
 大夕張を離れ、中学1年まで、道南渡島支庁の鹿部という町に、更にその後、高校を卒業するまで、桧山支庁の北桧山という町におりましたが、この小学校4年までの記憶の方が、その後の高校卒業までの記憶よりも
生き生きと蘇ってまいります。

 やはり生まれ故郷だからでしょうね。

 今思えば、短い間のことでしたが、実に多くの事柄が、私の脳裏に鮮明に焼き付いております。

 
 幼稚園のころのこと、小学校での様々な思い出、友達のこと、先生のこと。

 また、皆さん方の思い出に語られているようなこと

 (冬、お風呂の帰り、髪の毛がかちんかちんに凍ったこと、富士見町の裏の沢で石を研いだり、トンボを取ったりして遊んだこと、浴衣を着て「ローソクちょーだーい」といいながら、友達と家々を回り歩いたこと)

 等々が、そのまま私自身の懐かしい思い出の数々です。

 

 私が住んでいたのは、富士見町6丁目。

 番地は失念してしまいましたが、場所はというと、6丁目の一番山側(西側)から数えて二つ目の、道の東に
面する側の家々の一番上、或いは別の説明を試みれば、小学校に向かって下って行くと、途中で確か長島さんという方が管理されていたと記憶する、富士見町浴場の裏側に出るその道を、逆に小学校を背に6丁目の坂を登り切ると、東西に横切る道に突き当たりますが(この道を東側に下って行くと炭山駅に出る)、この双方の道がぶつかる所の東角とでもいえばいいのでしょうか。

 
 かえってくどい説明になってしまいましたが、富士見町に在住しておられた方でしたら(飯田さんも富士見町6丁目におられたとのことがあるとのことですね)、おおよそ場所の特定はしていただけるものと思います。

 

 わが家のお隣は父の同じ郵便局仲間の片岡さん、その片岡さんの南側は同じく郵便局の田中さん、更に南側に同様にいどい(飯土井?)さん、とそれぞれのお宅には、私と年齢のにかよった常盤町時代からの幼なじみの面々がおりました。

 わが家の南隣は、お名前は忘れてしまいましたが、警察の方でした。ご家族の皆さん大変親切で、そこのお兄ちゃんとはいつも遊んでもらったり、家におじゃましたりした記憶があります。

 野球のキャッチボールとかも、父親や兄にではなく、そのお兄ちゃんに教えてもらったものでした。

 同学年で同じ6丁目にいる友達といえば、確かおとうさんが高校の先生をしていた永井あつしちゃんなど、友達が近所に数名おりました。

 6丁目ではありませんでしたが、同じ富士見町には、同級生で宇部形かずひでちゃん、高木とおるちゃん
といった大の仲良しもいて、いつも一緒に遊んでいました。

 聖心幼稚園時代の (ちなみに我々はこの幼稚園の第一期生でした) ベレー帽を被り、園児服に身を包んでの通園、小学校の登下校もいつも一緒にしたものです。

 小学校1、2年は長谷川先生の桜組、3、4年生は米沢(下の名前は「作郎」だったと思います)先生の竹組でした。

 これら懐かしい幼なじみ、友達、級友達は、今どこにいるんだろうか?

 そんなことをふっと思ってしまいます。

 

 私が、大夕張を離れてしばらくしてから、三菱大夕張炭鉱が閉山になり、友達の多くも大夕張を離れたという事を聞き、

「そこへ帰っても、もう誰にも会えない」

「住んでいたあの富士見町の家もない」

という事実を知ったときに受けたショックは、相当なものでした。この時点ですでに、これは自分にとっては事実上の故郷の消失を意味していましたが、今、数年後に大夕張がダムの底に沈むということを聞くに及び、もはやそこに行くことすらならぬことになるんのかと思うと、もう完全に息の根を止められるといった感じですね。

 

 大夕張の様々な思い出(個人的な思い出になってしまいますので、皆さん方と、共有することが或いは出来ない部分も多いと思いますが)、ご迷惑でなければ、書き綴りたいと思います。

 追伸、小学校の時、社会の時間だったか道徳の時間だったか定かではありませんがに「私の夕張」という夕張市の成り立ちを記した教科書を使っての授業があったことを記憶しています。

 当題名はそれにちなんだものです。

 

(1998年7月2日 記)


随想

1件のコメント

  • 菅井さんの記事に添付した画像は、昭和33年の地図。昭和30年代後半から40年にかけて、すでに6丁目の上の方の住宅はなくなっていた。その住宅があった空き地は、子どもが虫取りや、草花の採集をして遊ぶには最適の広さだった。
    地図に添付した写真は、平成9年(1997年)富士見町6丁目の自分が住んでいた場所を訪ねた時に撮影した写真。文中にも出てくる炭山駅から6丁目の山の方に登っていく坂道の途中からうつしたものである。右手の大きな木が、当時を思い出し、木を入れて山に向かってシャッターをきった。左に坂道を下っていくと鹿島小学校方面になる。
    大夕張でも高いところにあったこのあたりは、おそらく水没を免れているだろう。うまく探せば国道からも見えるかもしれない。
    下に添付した昭和43年の住宅地図では『大橋』と書かれた家、その近くに『菅井』さんの家もあり、ここに登場する方々の名前を見られる。自分の同級生もいる。菅井さんとは、当時は、学年も違い面識がなかったが、同時期ご近所さんだったのは間違いなかった。
    資料とともに、菅井さんの子どもの頃のそんな懐かしい思い出ばなしを聞くことにしようか・・・。
    _

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