平成10年 発電所からポンプ場へ|飯田雅人

22092

突然よみがえる記憶 官行の道 平成10年夏の大夕張 

 下の写真は、昭和40年頃の発電所の写真をカラー化したもの。

 色はあまり綺麗に出せなかったけれど、それでも初冬の風景なのか、枯れた下草が寝ているような様子に見える。

白黒写真に着色した画像

大夕張を出てからも,私自身の記憶に残る風景や建物は多くある。

しかし,この発電所の建物は,写真を見ても,最初どこの場所かさえもさっぱり思い出せなかった。

 平成10年、緑がまぶしいよく晴れた夏のある日、大夕張を訪れた。

 その時、一直線に続く道の左手に発電所の鉄塔や建物を見た。

 その道の下から聞こえてくる川のせせらぎを聞いた時、今から30年ほど前、小学生だった自分が確かにこの道を歩いていたことを思い出すと同時に、この写真のことを思い出したのだった。

 

 

昭和40年 発電所 (官行) 向こう側に選炭所の施設が見える

 その日、 照りつける太陽の光さえ、少年時代の記憶と結びついて、懐かしさをかきたていた。

 

 道の跡と、わずかに残る建物が、当時『官行』と呼ばれていたこのあたりの記憶を蘇らせ、次第に鮮明になってきた。

 

 記憶では、病院前の道をまっすぐ進み、炭山駅の踏切をしばらく過ぎたあたりで、下の写真の三叉路に出たはずだった。貯木場と駅を結ぶ線路もあり、踏切もあった。

 

 

 

かつての炭山駅前の踏切をしばらく歩いてふり返った三叉路。炭砿病院方向を見ている。
左に線路があり、そこを横切っていくと、線路に沿っていくつかの建物がたっていたはず。
昭和38年の大夕張の官行、初音台

 

 シューパロ川の上流に向かってしばらく歩いていくと、営林署、メタノール工場へ分岐するT字路があった。

 

 このあたりはかつて貯木場があった。今は感傷に浸るカケラひとつもない。

 

 昭和44年の夏、珍しく父に声をかけられて、私と弟、隣のブロックに住む仲が良かった友人のトシボーと、4人で官行の方に出かけた。

 

 父がなぜ私たちを、何を思い、連れ出したのかわからない。

 

 何を目的にいったのやら・・・天気に誘われてぶらぶらと散策に出たのかもしれない。

 

 今となっては、手ぶらで学生帽をかぶった中学生二人と、水筒と網をもった小学生の弟が貯木場に積まれた木材の前でとった写真だけが、手元に残っているだけ。

 

 

T字路の先をしばらく行くと、道路から左手に変電所が見えた。

 

昭和40年頃の写真では、かなり近づいた位置からの撮影だ。

 

 

向う側からあがる煙は三菱鉱業所事務所の跡に入ったイサオ製作所あたりからあがっていた。

 

 

変電所の前の道を過ぎると、シューパロ川の流れの音が大きくなり川が近づいてきたことを感じた。

 

 

この先の道はすでに通行止めになっていた。

 

この先は車止めと草木が先を遮っていて車が通れないようになっていた。
道路の左手に赤く錆び付いた40k制限の道路標識が朽ち折れて立っていたのが印象的だった。
絶え間なく聞こえた取水堰の音

右手からはシューパロ川のせせらぎの音が絶え間なく流れ、小鳥の鳴き声が聞こえていた。

その時、突然右手の木々の陰に小さな道があるのに気がついた。

 

「そうだ!川におりて行く道だ!」

 

記憶が蘇り、迷いなくその小道に入って崖を降りていった。

 

この道を降りてきた

 

 そこを降りると、ポンプ場があり、目の前に取水堰があらわれた。

 さき程から聞こえていたサーという絶え間ない流れの音は、取水堰を超えて流れる水の音だった。

 

 堰で水を取り込み、このポンプ場で水を神社の浄水場にくみ上げていた。

 取水堰を境に、上流は美しい渓流であり、この先からは石炭を洗った水で黒く濁っていたのだった。

  

 

 この場所に確かに来たことがある。

 そう思えたのは、取水堰で父がわたしたちを撮影した写真が家に残されていたからだった。

 今回の訪問は、この時以来だったのだ。

 

 

昭和43年 取水堰を背に

1件のコメント

  • 発電所にはコークス炉も隣接していましたね。

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