苛性ソーダと石けん その1|高橋正朝 #56
私が鹿島東小学校の高学年だったあるとき、授業で、先生が、石けんを作ろうと言った。 理科の教科書に、石けんのことが出ていたからだ。
石けんの具体的な作り方が、教科書に載っていたわけではない。 油と苛性ソーダで作ると書かれていただけだったように思う。
油は皮膚につくとべとつくから、それから作られた石けんが、なぜ、汚れをおとすことができるのか、疑問に感じた。
苛性ソーダという名称を認識したのはそのときだったが、苛性ソーダが、水酸化ナトリウムの別称だというのは、小学生だった当時は知らなかった。
ソーダという名称は知っていた。
私が、鹿島東小学校3年生のときの雪が降っていた時期の夜、母親が、自分が子どものときに歌っていた歌を、ストーブの横に寝そべっていた私に教えてくれたのだ。
『 ソーダソーダ、ソーダ屋のソースケさんが、ソーダ飲んで死んだソーダ、ソーシキまんじゅうでっかいソーダ 』
この歌の詞は、ネットでチェックしたら、若干違うバージョンがあるようだ。
翌年の春、この歌は、下校時、東小学校の門を出た辺りで、誰かが歌っていたのが聞こえてきた。 だから、子どもの間では、それなりに歌われていたのだろう。
ただし、
『 たんたんタヌキのキン●●は、カーゼもないのにブ〜ラブラ 』
という、品のない歌ほどには有名ではなかった。
『 ソーダ屋のソースケさんが、ソーダ飲んで死んだソーダ、』で、ソーダを飲んだことと、ソースケさんが死んだことの因果関係に疑問をまったく覚えず、この歌は、3〜4回口ずさんだだけで覚えてしまった。
この歌のソーダは、クリームソーダの炭酸飲料のソーダではなく、苛性ソーダのソーダである。 このことは誰でも識っていることだが、私はソーダという名称にこだわり、長らく混同していた。
授業で石けん作りをしようとした先生は、黒板に、材料を書いたが、私や大多数の生徒は、全然真剣味がなかった。 しかし、ある女子生徒が、薬局に、苛性ソーダを買いに行った。
そこで、薬局の人に、苛性ソーダは子どもには買えないことを知らされた。 その女子生徒は、先生に報せ、結果、石けん作りは実施されなかった。
(2021年9月4日)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
楽しい「言葉遊び歌」
リズムにのってはやし立てるように歌う唄。
谷川俊太郎さんの「いるかの歌」なども好きで、若い頃絵本を買ったことがあります。
原作の阪田寛夫さんは、詩や児童文学で名前を覚えていましたが、昭和49年には、芥川賞も受賞した小説家でもあったんですね。
『そうだ村の村長さん』 阪田寛夫
そうだむらの そんちょうさんが
ソーダのんで しんだそうだ
みんながいうのは ウッソーだって
そんちょうさんがのんだソーダは
クリームソーダのソーダだそうだ
おかわり十かいしたそうだ
うみのいろしたクリームソーダ
なかでおよげばなおうまそうだ
クリームソーダのプールはどうだと
みんなとそうだんはじめたそうだ
そうだむらではおおそうどう
プールはつめたい ぶっそうだ
ふろにかぎるときまったそうだ
そうだよタンサンクリームおんせん
あったかそうだ あまそうだ
おとなもこどもも くうそうだけで
とろけるゆめみてねたそうだ
子どもの頃の、遊び歌を久しぶりに思い出しました。