カラオケ・大夕張小唄
昭和30年ころ、電気蓄音機(電蓄)でSPレコードを聴くというのが、一般的で、歌うという習慣はあまりなかったのではないだろうか。昭和30年代、大人たちが、真空管式の子どもの背丈ほども高さのある電蓄でレコードをかけていたのをみたような気がする。
カラオケという言葉を聞いたのは、1985年頃だろうか。駐車場付きのカラオケボックスが見られるようになった。
駐車場に何台かの車が停まっているのを見ると、「カラオケというものが流行っているんだなあ」というくらいの認識で、自分が行くことはなかったので、どんな仕組みだったのかも良く知らない。
何しろ音楽の授業は、鹿島小学校高学年の音楽専科の小野先生や、鹿島中学校伊清先生の授業を受けたが、覚えているのは、小野先生のかっこいいピアノ伴奏や、小柄な伊清先生が体いっぱい使って合唱指導をしている姿であり、それらは傍観者的であり、主体的に自分が楽しく歌っているというようなことは、まったく記憶にない。
そんな訳で、当然、高校に進んでの選択教科は美術を選択し、音楽との縁は切れた。
就職してから5年くらいたってから初めてカラオケスナックへ、先輩に連れて行ってもらった。その頃は、まだカラオケも通信制ではなく、テープを入れ替えて歌い、歌える曲も限られ一曲のお値段もずいぶん高かったような気がする。
働いてからも酒を飲まない自分は、付き合いでマイクを握ったくらいで、歌うことはあまり積極的ではなかった。
その反動なのか、退職した今は、自宅でPS4の通信カラオケで、自宅でヘッドフォンを被り、今や懐メロになってしまったGSサウンドや、フォークソングを、一人カラオケに興じるこの頃である、笑。
この大夕張小唄のカラオケは、以前マスコミに『ダムに沈む街』として大夕張がテレビ等で取り上げられた時に、当時の住民の方々が、元池田屋食堂だったスナック『張張』で、歌っている姿が印象に残っている。