同級生との不思議な縁|里見尚子
昭和35年2月生まれです。
父の転勤で、鹿島小には昭和43年から46年まで在籍していました。
最後の担任の先生は、木村国男先生でした。
本当にやさしい、一番好きな先生でした。
当時は、炭坑がまだ栄えている時期で、転入生も多かったのを記憶しています。
私は、富士見町1丁目、スキー場のすぐ前の、柳の木のある家に住んでいました。
冬には学校から帰ると、毎日の様にスキーをして遊びました。
夏には、スキー場の山のてっぺんに登って、そこから見える裏山の美しさに見とれていました。
神社、カトリック教会、映画館もありましたね。
私は映画館の前の駄菓子屋さんで、”まんぼ” という名前の一本一円のお菓子を買って、よく映画を見ました。
確か、大変安い金額だった様に記憶しています。
もしかしたら、飯田さんは姉の同級生かも?
私達姉妹は、現在は神奈川県に住んでいます。
姉は厚木。 私は横浜です。
姉は鹿島中学に中学2年の夏まで通っていました。
途中に怖いつり橋があると言っていたのを記憶しています。
私は小学6年で札幌に転校したので、怖いつり橋がどんなものか知りません。
思い出す事はいろいろあって、当時のクラスメートのことも思い出しちゃいました。
同学年に、佐藤隆くんと、羽生君という子がいたのですが、札幌で同じ高校でした。
佐藤君は、小学校2年から4年まで、同じクラスで隣同士も何回もあったのに、高校で隣のクラスにいるのに気がついたのは、なんと卒業の1ヶ月前でした。本当に驚きました。
羽生君は、一度も同じクラスになったことがなかったので、鹿島小在学中は全く知りませんでした。
しかし、高校2年3年と同じクラスだったにもかかわらず、鹿島小の同期だとわかったのは、大学卒業後、社会人になってからでした!!
このページを読んで下さった方の中に、同学年の方がいらしたら、ぜひ書き込みしてください。
(2000年11月3日 記)
里見さんの投稿に対して、当時次のように書き込んでいました。
↓
里見さんの住んでいたスキー場下の住宅で思い出しました。
冬、ロープ塔の小屋の上あたりからすべると、とてもスピードが出て、自分には泊まりきれず道路を飛び越して向いの住宅に飛び込んでしまうのではないかと、心配をしながら、滑り降りていたのでした。(実際は住宅に飛び込む前に途中でコケてそんなことは杞憂に終わるわけですが(~_~;)
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羽生君は,お兄さんと同級生でした。羽生君の弟とうちの弟は一つ違いで同じ高校
に通っていましたので,当時は里見さんと案外近くのところにいたのかもしれませ
ん。
↑
同級生云々のはなしは、今では、すっかり忘れてしまっていたことでした。そうだったんだなあ、と納得。
年をとっても『大夕張ほどの昔』のことはわすれないと思っていましたが、そんなことはなかった・・・。